レツであることに就ては、快く思うわけに行かない。それは、たとえば、買ったシャツのボタン穴が、かがってなかったり、左右の袖がアベコベに取りつけてあれば、シャツ製造人や販売人に対して快くは思えないのと同断であろう)
 この手法の特色の一つは、主観的、観念的な表現を避けて、もっと即物的《ザッハリッヒ》な感じの作品を書くのに有利だという点である。かつて、武田麟太郎が「味もソッ気も無く書く」とか「散文精神」とか言っていたものだ。たしかに、現代生活のひろがりと複雑さと速度は、或る意味でこのような手法を要求しているし、現にこの手法が正常に駆使されれば、われわれはフィクションを感じる前に客観的現実そのものを見るような感銘を受けることがある。しかし、この人たちの作品からは、そのような感銘を受けることは稀だ。手法だけは「味もソッ気も無く」モウレツに早取写真式になっているクセに、それを読んでわれわれの第一に感じるものは、逆にかえって、作者の主観や観念である。舟橋や田村や丹羽や井上や石川や火野などの最近の作品を読過して最初に私に来るものは、彼等の持っている「人生観」みたいなものであって、彼等がその作品の中で取りあげた人間や物の生ける姿は、ごく僅かしか迫って来なかった。私の感受が、もし大してまちがっていないとすれば、これは、この人たちの手法と効果との、全く致命的なソゴではないだろうか。そして、なぜに、こんなソゴが起きるのだろう?
 その理由を私は次ぎのように考える。
 いわゆる「味もソッ気もない」客観的手法や「散文精神」と言ったような「非情」の把握――つまり早取写真式の手段というのは、もっと正確な言葉で言えば、現実の真相を、よりリアリスティックにとらえたいという欲望と必要から来たルポルタージュ方式のことである。そして、ルポルタージュ方式にとって、不可欠なものは第一に、そのルポをなす当人の自我の知情意が高度にそしてキンミツに確立されている事だ。次ぎに、そのルポされる現実の中を「千里を遠しとせず」に当人が身をもって通りすぎて来るだけの努力(即ち「足で書く」ということ)である。この二つが、二つながら、これらの人々に不足している。自我の確立が不充分又は放棄されている事は前述の通り。そして、たいがい坐り込んでムヤミと酒を飲んだり、せいぜいバアやダンスホールなどを歩いて、妙な婦人や文学青年やその他あれや
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