くとも、その作品の基調やゼスチュアや言外の気分として、それをやっているのである。必要とあれば、その具体的な例をあげてもよい。そして、それが、たいがいは、小説製造販売業者としての自己保存欲からの「失地回復」の手段としてである。
作家としての誠実さの一片があったら、これらの作家たちの中に、むしろ、どうして一人の頑迷な者があって、当世出来合いの「民主主義者」どもに向って「俺のやった事の、どこがまちがっているんだ?」とズブトク反ゼイする者が無いのかとさえ私は思う。また、「俺は有罪だ」と言いきれる者がいないのかとさえ思うのである。民族と国家と世界への連帯性において自我の内部を、多少でもシンケンに検索している精神にとっては、軽々しく「総ザンゲ」みたいな事をする、しないは問題で無い。場合によって一言も言わなくともよいのである。だまって深く追求していればその追求の姿の実体は、必ず作品の基調の中に現われる。「作品いずくんぞかくさんや」である。それがほとんど無い、この人たちの作品に。ムヤミやたらに豊富に有るものは「世相」と「肉体」と「ストオリイ」である。まるで世相は自己を抜きにして存在するかのように。肉体は精神を抜きにして存在するかのように。
ストオリイは真実を抜きにして存在するかのように。
左翼の評論家の或る者たちが、この人たちの行き方を批評して、ファシズム的イデオロギイの温床だと言った。
それは、ちがう! どうして、ファシズムまでも行きはしない。ファシズムまで行けば、すくなくとも、それは憎むに値いする。とにかくそれは一つの何かである。これは、憎むにも値いしない「ノダイコ」的習慣の温床である。
6
次ぎにこの人たちが創作方法として取り上げている手法は、早取写真的方式である。それが、早く、たくさん書く必要から無意識のうちに生れたものか、現代の今の今を活写するために最適の手法として意識的に取り上げられたものか、わからない。多分、両方だろう。どちらかと言えば、前の理由が強いのではないかと思う。いずれにしろ、良かれ悪しかれ、この人たちにとっては、必然の手法である。そして、その限りで、手法自体に不服をとなえる理由は無いようである。(ただし、この人たちが業者として、あまりに能率を急ぐために、作品を作りあげるための最も大事な部分々々の文章が、非常に往々に、支離メツ
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