多かれ少なかれ、つまりが、教祖的な本質を持っていると言うのでしょう? すると、ソビエトの芸術家や日本の左翼作家は、芸術家としての本質をホンの稀薄にしか持っていないと言うわけ?
B いやそうじゃないですよ。それはこうです。芸術や芸術家は、いつでも、どこででも、政治やイデオロギイよりも差し当りは弱いのです。政治やイデオロギイは、つまり現実関係を要約したものだから、言わば鉄の棒のように強い。芸術や芸術家は、流れる水のように弱い。鉄の棒で、流れる水をなぐりつけると、水は割れたり飛び散ったりします。そういう関係です。それゆえにまた、鉄の棒が叩き割ることの出来ない大岩を、水がいつの間にか溶かし流すように、芸術と芸術家は政治およびイデオロギイが成し得ない事を成しとげる事がある――と言ったふうに実は強いのだが――差し当りの現実の中では弱いんですよ。特に現在までのソビエトロシアのように一つのイデオロギイが絶対力として支配しているところでは、弱いのです。また、或る意味で、弱いことが必要でもあるわけだ。だから見てごらんなさい、ソビエトロシヤでは、革命以来、オリジナルな芸術家たちは、ほとんどすべて、そのオリジナリティの多少に応じて、中途でツマづいています。ソビエト政治体制という鉄棒に。それはその当人のイデオロギイ的未進化や逸脱のためもあるが、必ずしもそれだけであるとは私は見ない。彼の芸術および芸術家としての本質が、いやおうなしに彼を駆って、ツマづかせるのだと思います。或る者はそのために自殺した。或る者はソビエトにあやまって、「出直し」て、それまでよりもポスタア的な芸術を作りはじめた。或る者は、最初からポスタア的な芸術だけが芸術だと「訓育」されているから、いわば最初から芸術家としては骨抜きになっています。これはソビエトロシヤだけで無く、政治というものが一つの論理的なシステムや主義でもって強力に一方的に行われるところではどこでもいつでも、そうなのです。(ナチス治下のドイツもその一例であった。)それから、日本の左翼作家たちは、それぞれ自ら、マルクシズムからの適用である社会主義的リアリズムだとか唯物弁証法的創作方法だとかで自分たちを縛り上げています。もちろん、当人たち自身は「武装」しているつもりだ。武装は常に「縛り上げ」ですからね。徳永直さんなどの小説が、部分々々は良い場合にも、全体としては、公式
前へ 次へ
全137ページ中82ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三好 十郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング