マルクスを見るにも、『資本論』を通して見るのと同時に、このエピソードを通しても見ます。笑いながらであるけれど自分の打ち立てた体系からハミ出してしまっている自分自身を認めているマルクスを見るのです。そのハミ出してしまった部分をもひっくるめてマルクスと言う人間を見るのです。そして、おもしろいと思います。たのもしいと思います。そして人間と人生はどこまで深くどこまで偉大になり得るかわからないと思い、その事から人生に対してホントのケンソンさと同時に人間の可能性についての自信と希望を得ることができます。そして、これが芸術の態度の本質なのです。芸術家の態度の本質なのです。芸術と芸術家は、人間を頭脳だけとは見ません。生殖器だけとも見ません。それら全部が一体となったものと見ます。そしてその一体となったものは、五官の全部の算術的総和よりもさらに大きなものと見ます。また、人生社会を一つや二つや三つのイデオロギイでカヴアできるような小さいものとは見ません。それらのイデオロギイ自身がそれぞれ人生社会全部をカヴアできるのだといくら豪語しても、それがウソだと言うことを「感じ」ます。感じているからこそ、芸術家はどんなイデオローグにもなれないのです。そしてまた、そうであればこそ芸術家は人生社会をどこどこまでも発展させて無限の可能性へ向って歩いて行かせるキッカケになるところの「発見」や「発掘」をすることができるのです。ですから芸術家は本質においてイデオローグになれない「運命」を持っているのと同時に、イデオローグになってはならない「義務」を持っているのです。(きまりが悪いがチョット「歌わせて」ください。だって他に言いようが無いから)それは、人類に対する光栄ある義務です。私も及ばずながら、この義務を投げ捨てたくありません。また、これを保持することに大きな興味を持っています。ですから私はイデオローグになれないし、なりたくないのです。
A 芸術家はそれでよいかわかりませんが、芸術家でない人間は、すると、どういう事になりますか?
B すべての人が芸術家になればよろしい。また、現にすべての人が厚薄の差こそあれ、それぞれ、どうして芸術家で無いことがありましょう。その人が真人間ならばです。そうではありませんか、真人間なら、それぞれ何かを生み出しているではありませんか。ですから、私の「芸術家」は「真人間」のことなのです
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