その後の新劇人たちは、必要も必然も無いくせに、恐るべき無反省と、賞賛に値するスナオさで物マネシステムを受けつぎ、更にそれを育成してしまった。演劇芸術のプロトタイプが、人間の生きている現実の人生であり、なければならぬ事など深くも考えなかったことは、もちろんである。だから、いつの間にか、たとえば、久保田万太郎の戯曲を演出演技するよりも、セキスピア物を演出演技する方がやさしい――すくなくとも、よりすくない抵抗を感じつつやれるということになって来てしまった。この現象は、ピグミイ族がブーメラングや手槍を怖がりながら、四十八サンチ砲をすこしも怖がらないのに酷似した現象である。いずれにしろ、新劇のハクライ趣味はこれからも衰えることは無いであろうが、だからまた、これをたとえていうならば、これはちょうど胸から下はスッパダカのカナカ族が、人からもらったシルクハットをかぶり蝶ネクタイをむすんで歩いているようなものであろう。たしかに、それは、ただの、完全にスッパダカのカナカよりも「ハイカラ」にちがい無いのである。またそれを「ハイカラ」だと見てよろこんで拍手を送る同族(=新劇のアカ毛ものを見て、西洋人の生活はこうなんだろうと思ってうれしがる観客が)非常にたくさんいるのだから、かたがたもってこれまたさしあたり、抵抗できるものでは無い。私も抵抗できなかった。
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第四に、新劇人たちの抜きがたい反動性ないし保守性。――既成の新劇人たちの九〇パーセントまでが共産主義者か共産主義の支持者である事実を知っている人はそれらの新劇人たちが反動性や保守性を持っていると聞けば、チョット異様な気がするかもわからないが、実は私も異様な気がする。しかし事実を見よう。それは、どういう点に現われているかと言えば、先ず、彼等が一様に持っている、より若い世代に対する冷淡さである。実に冷淡だ。時に冷酷と言ってもよい。より若い世代に対して手を差しのべ、それを育成し、激励し、バトンを渡すという事をほとんどしない。いつまでたっても自分たちが「大将」だ。「大将」の地位をたもつためには、時によって、より若い世代の劇団や演劇人を圧迫したりしている。次ぎに、人民大衆に対する冷淡または無関心の中にそれがある。現在の既成新劇団で、「人民大衆のための良き演劇」をとなえていない劇団は一つも無い。だのに実際は、現実に生きた人
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