定して行われる仕事だ。それが、右のような大衆の前で、どんなに歯ぎしりをしてナニワ節などと太刀打ちをしてみても、当分の間、勝目は全く無いだろう。そういう中で、無理にも新劇をやって行こうとなると、いきおい、少数の「選まれたる」インテリまたは半インテリを相手にしなければならぬことになる。事実そうなっている。
 そして、その「選まれたる」インテリ又は半インテリが、実は、更に困ったシロモノなのである。或る意味で、これらは、右のような一般大衆よりも「高級ぶっている」だけに、実は更に低い。二重に低級なのである。先ずこの連中は、内実においては「無知な大衆」以下に無知であり、その無知をあれやこれやの僅かばかりの文化的な小ギレで装飾している。だから、庶民のナイーヴィテや健康さを持たぬ。同時に真の知識人の自立性も批判力も保持力も持たない。食慾も感受性も知能も共に救いがたく毒されて衰弱してしまっている。あらゆる強力なものからの催眠術にいつでも引っかかるような状態に在る。彼等の思考と感受と行動の機能の中心は、主として附和と雷同と文化的虚栄心にある。シバイを見るのでも、シンから見たいと思って見るのでは無い。「新聞がほめているから」であったり「切符を売りつけられたから」であったり「新劇ぐらいは見ておかないと文化人の恥だから」であったり「新劇は進歩的だと言われているから」であったり、「人が良いと言うから」であったり「自分も新劇みたいなことをしたいから」であったり、大体、そういった理由のいろいろとコンガラカッタもので見る。だから見たシバイがおもしろくても心から楽しみよろこびはしない。また、おもしろく無くても、怒ったり、立ちあがって帰ってしまったり、それきり二度と行かなくなったりはしない。いつでも軽度の拷問にかけられているような、同時に軽度の快感にくすぐられているようなウットウシイ顔と心でもって見ている。その状態と効果は、インポテントの人間がエロ映画を見ているのに一番よく似ている。非常に病的である上に、非常に非人間的である。新劇の観客の全部が全部そうでは無いけれど、私のこれまでの調査によれば、先ずこういった観客が一番多い。そして、そのような病的で非人間的な連中を常に相手にしていると、やっぱりシバイの内容や形式が、こんな連中に気に入らなければならないので、永い間には意識的無意識的に新劇と新劇人も病的で非
前へ 次へ
全137ページ中59ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三好 十郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング