と、自分もダメになるし、仕事もダメになるから。次ぎに私は不幸にして分裂症状をあまり強くは持っていないから、自分の良心と必要や慾望とを千田是也たちやバクチウチのように、別々の場所で各個に使いわけることに熟練していない。しいて使いわけようとして無理をしていると、自分がダラクするような気がすると共に、自分に接触する他をダラクさせるような気がする。私の知っていた一人の遊蕩児が、一方で愛人を持ちながら他方でプロスチチュートを買いつづけていたら、自分がバイドクになると共に、愛人をバイドクにしてしまった事があるが、それと似た現象が起きるような気がする。気がするでは無くて、実際に必ず起きることを、多少知っている。そして、そんな事はイヤだから、やめたい。そして、私は、やめた。
実は、そうだからと言って新劇をやめないでもよい方法はある。即ち、経営的に辛うじて成り立たせることの出来る方法も新劇を良心的にやりながらその仕事でもって最低には食って行ける方法も、したがって良心と慾望を分裂させないで統一的に解決して行く方法もある。しかしそれは、合理的な、新らしい、そして相当に粗野な困難な方法であって、現在の新劇人のように、ほとんど「神々しい」くらいに非合理に古めかしく「優美」になってしまった人たちの賛同を得ることは、到底、望めまい。だから此処でそれを述べる勇気とスペースを私は持たないのであるが、(そのうちに述べる)それはそれとして、演劇は一人や二人で出来る仕事では無い。だから一人や二人の人間が、一つの考えを抱き、その考えがその当人にとって決定的な考えであれば、その人間は、そこから抜けてしまわなければならぬことになる。私にとって私の考えは決定的であった。そして私の考え方は既成の新劇人の間に、ほとんど賛成を得られなかった。しかたなく私は新劇から抜けてしまった。
4
新劇を取巻いている外的な条件として、次ぎに、観客層の低さという問題がある。
総体として日本の一般大衆の文化水準がたいへん低いことは、私などが今更言うまでも無く、残念ながら事実のようだ。なにしろ、いまだにナニワ節が圧倒的に人気があったり、ラジオの「向う三軒両どなり」といったふうの種目を世論の圧力でやめさせてしまうことも出来ないほどの水準である。そして、新劇は、どう安く見積ってみても、相当以上に高度の文化水準を予
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