術熱心」や恐るべきストイシズムを持っている。しかもこれらの諸特質をテンデンバラバラに一つ一つ別々に活動させるという分裂症的習慣を持っている。そのために、新劇公演をやめるということも、公演や研究の形態を変えるということも、いずれをもしなかった。そして、どういう事をしているかと言うと、一方において歯を食いしばって新劇公演をケイレン的に行うことによって芸術的良心の満足を求めつつ、他方においてこれまた別の意味で歯を食いしばりつつ、映画出演その他で金をかせいで生活的必要の充足を求めつつあるのが現状だ。これは、しかたの無い事であろう。彼等の古めかしさと「芸術熱心」とストイシズムと、そして、それらが個々別々に分裂しているという事実を計算に入れれば、まったく、こうする以外に道は無いにちがい無いと思われる。千田是也などが言っているように「ぼくたちは、ただシバイがしたいのだ。シバイをするためには、どこで生活費をかせいで来ようと問題では無い」のである。かつて、私の友だちのバクチウチの一人が「俺はただバクチが打ちたいのだ。そのモトデを作るのに女房をたたき売ろうと何をしようと、いいじゃねえか。いらぬ世話あ焼くねえ!」と言ったことがあるが、――なんと、この二つの言葉の調子の似ていることであろう――まったくハタから何かと言って、いらぬ世話を焼くことはいらぬようである。第一、千田是也たちもバクチウチも、当人にしてみればケンメイになっているのだから、それに無責任にケチをつけたりするのは失敬だ。
だから私は世話を焼こうとするのでもケチをつけたりしようとしているのでも無い。私は私で次ぎのように考えざるを得なかったと言おうとしているだけだ。私は、千田是也たちやバクチウチのようにストイックでも「芸術熱心」でも古めかしくも無いらしい。私にとっては、経営的に成り立たないものは成り立たない事であって、それはやめなければならんし、やめざるを得ないものだ。どんなに残念でも、そういう事になるのである。女房をたたき売るよりもバクチの方をやめるわけである。次ぎに、その仕事を自分がケンメイにやろうと思えば思う程、もしその仕事からの収入でもって食えないことがハッキリしたら、それを、やめる。もちろん自分がしたいと思ってする仕事なのだから、それでもって、ゼイタクに食いたいとは思わないけれど、最低には食わなければならん。そうしない
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