人間的にならざるを得ない。事実そうなっている。それは後で述べる。私は、そのような観客を好かぬ。同時に、そのような観客からの逆作用を受けて、これ以上病的に非人間的になされることが怖い。だれでも嫌いで怖いものの中にいつまでもいられるものでは無い。私もいられなかった。
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そこで今度は、新劇の内部を調べて見よう。
現在、既成の新劇団として重だったものに俳優座と文学座と新協劇団と民衆芸術劇場の四つがある。他に、これらよりもいくらか若い世代の人々による新劇団が三つ四つあるが、それらに対しては多少私の見方はちがうから、今は触れない。
この四つの劇団と劇団員のしていることは、それぞれ、愚劣であったり、ナンセンスであったり、珍であったり、アワレであったり、鼻もちがならなかったりすることが多くて、これをいくぶんでもマジメになって論評するには相当の忍耐心を要する。でも、しかたが無いから、しんぼうして、そのナカミの性質をかんたんに列記してみよう。
第一に、あらゆる演劇にとって一番大事なものは戯曲作品だ。新劇にとっては、なおさらである。英語で書いても、The New Dramatic Movement だ。ドラマに立脚した仕事である。これはリクツでは無い。人間のからだの中で、頭脳がもっともたいせつな部分であるのと同じような常識的に自明のことである。ドラマこそ第一番目の最優位の決定的な要素であって、演出者や俳優はドラマが打ち出したものを忠実に具体化し肉体化すれば足りる。と言うよりも、そうであればこそ演出も演技も生きるのだ。それを既成の新劇人なかんずくその指導者たちは知らないか、忘れてしまっているか、または何かの必要から故意に無視している。時によって口の先や筆の先だけでは、ドラマやドラマティストを尊重するらしいことを言ったり書いたりする。しかし実際においては常に演出者第一主義か俳優第一主義だ。その実例は有りすぎて、あげる必要が無いだろう。ホッテントットとかピグミイ族といったような未開人の間に、人間にとって一番たいせつな物は、生殖器の先端だとかヘソの中に在ると信じて、これらを自分の頭よりもだいじにする習慣があったとするならば、さしあたり、われわれはこれを愚劣と呼び、ヘコタレて引きさがる以外に手は無いであろう。だから私は新劇人たちのこのような習慣を愚劣と呼び、ヘコタ
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