ろいろ言えないことは無い。しかし、自分がホントの興味を失った事がらについて、ものを言ってみても、役に立つまいし、第一そんなことをしていると、世間の批評家たちの多くのように、自分の食慾を毒し、自分をダラクさせ、自分を不幸にするに至る。私は自分の食慾を毒し自分をダラクさせ、自分を不幸にすることを望む者では無い。だから、「ヘド的に」が、あと何回つづくか何十回つづくかわからないけれど、最後まで演劇=新劇のことは語らないつもりでいた。
 ところが、わりに最近、私をたずねて来た人たちが、次ぎのように言った。その中の数人はすぐれた青年であり、又他の数人はこれまたすぐれた劇作家や新劇専門家であり、そしてその全部が私にとって重要な人たちであった。
「あなたは演劇=新劇に興味を失ったと言っている。それでいてあなたは戯曲を書いている。しかもあなたの書いている戯曲は、言うところのレーゼドラマでは無いようだ。すくなくとも本質的には、舞台性をあなたは忘れないで書いている。すると、あなたが何かの形でか舞台に興味を持たない筈は無い。そうならば、ホントは、現実の演劇=新劇に、なにかの意味の興味を抱かぬ筈も無いように思われる。あなたはウソを言っているか、又は、ムジュンに陥っているのではないか」
 これは、私には、なかなか痛かった。
 私は自分のなかを調べてみた。そして、ウソを言っているのでは無いという確信は見つけだした。しかし、ムジュンに陥っていることは認めざるを得なかった。だから、その人たちにそう答えた。すると、その人たちは、異口同音に、こんな意味のことを言った。
「もしそうならば、あなたはそれを公表する義務みたいなものがある。なぜなら、あなたの陥っているムジュンの中にこそ、われわれが今よく考え、解決しなければならぬ問題があるように思われるから。すくなく見つもってみても、そのようなムジュンの姿を、あからさまに見ることが、われわれおよびその他のたくさんの新しい人々の参考になるから」
 言われて私はもっともだと思った。だから、これを書くことにした。
 標題の「落伍者」は私自身のことだ。もちろん私にもウヌボレがあるから、私のがわから言えば、私が演劇=新劇を見捨てたと思っているわけである。つまり、以下の文章で私は、私がどんなわけで落伍者になったか、または、どんなわけで演劇=新劇を見捨てるに至ったか、見捨てざ
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