というものは売薬の「特効薬」を盛んに買いこむ傾向を持っているものであり、だから宮本の作品が盛んに迎えられるのも、それに類する現象ではなかろうかという考えである。そうだとハッキリ言い切るだけの根拠は、前にも言ったように、まだ無い。今のところ、そんなふうに考えれば、いくらかフに落ちてくるし、そして、そう考えてよければ、私も自分の感受力がヘンになったかもしれないとか自分が根性曲りになったのかもしれないとか考えないですむから、気がラクになるわけである。ホントは、むしろ、この点に就ては、私などよりも進んだイデオロギイと文学芸術上の教養を持った人々の意見を聞き、教えていただきたいと思っている。「宮本の作品を、あなたはホントに良いと思いますか? もしそうなら、どこがどんなふうに良いのですか? ハッキリ言って下さい。そして、公に聞かれるためにウソをつくというやりかたで無く、正直な所を答えてください」と言って。
そして、これまで書きつけた事によって大体わかっていただけただろうように、さしあたり、私においては、宮本百合子およびその作品を好まないと同じ程度に尊敬しない。逆に、好むと同じ程度に尊敬していると言っても同じことだ。かくて、ありがたい事に、私の分裂症状はなおった。
以上、宮本についての走り書きを、一応終る。言いたりない個所があることは自分でも気が附いているから、機会があれば、同じ課題でもう一度でも二度でも、ものを言ってみてもよい。
実はこの回では宮本百合子と中野重治と徳永直のことを語ろうと予定して書きはじめたのであるが、宮本だけのことで既に紙数を超過してしまった。中野と徳永について各十行ぐらいずつで何か言えないこともないけれど、それは両氏に失敬のような気がするから、今度はやめる。
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落伍者の弁
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第一回のはじめに書いたように、私は演劇ことに新劇について発言することに、興味を失ってしまっている。今の日本の演劇=新劇界には、文化的に重要な第一線的な問題は、なに一つ無いように思われるから。それに、それは「見もの」としても、既に古くさく、おもしろくなくなってしまっているから。つまり私にとって、それは現代人としての中心的なものへの刺戟をすこしも与えないだけでなく、教養や娯楽の道具としてもタイクツになってしまったからである。議論だけならばい
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