るを得なかったかを書くわけである。
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今の日本の演劇をカブキと新派と大衆演劇と新劇と軽演劇とに大別することができる。
カブキは、既にほとんどコットウ化した。これを正常に味わうためには、今となっては特殊の予備知識を必要とする。演じる方でも、既にまったく「生み」はしない。先人を「すき写す」だけである。或る種の高級な美がそこには在る。しかし、今日的なものの中で最も今日的な芸術「生きた演劇」としての処理には、あらゆる意味で耐え得まい。それは、すでに慎重に保存しなければならぬ時期に来ているしまた、保存する値うちのあるものだ。
大衆演劇の中には、新国劇や前進座などといった、比較的健康な演劇活動を見出すことができるが、それはごく少数である。たいがい、ナニワぶしに毛の生えたようなシバイであるにすぎない。前進座や新国劇にしても、他のものに較べると健康だと言える程度であって、それらを支配しているのは芸術方法の上での無方針やらヒヨリミ主義[#「ヒヨリミ主義」は底本では「ヒヨミリ主義」]などである。だいたい、すこしシッカリした中学の上級生以上の内容を持った人間なら、空疎な気持を抱かないで見ておれまいと思われる程度のシバイである。他はおして知るべし。
新派のシバイとなると、小学校六年程度以下だ。もっとも、いまだにゲイシャやゲイシャのダンナやママハハやコンジキヤシャなどが主なるテーマであるシバイだから、小学六年以下では、なんのことやらわからんだろう。もしわかったら、トタンに腹を立てて飛びだしてしまうだろう。ごく少数の俳優たちが相当の「芸」だけを持っている。その「芸」は、ムダに、まちがって使われている。
軽演劇は「媚態」で一貫している。媚態が良いという人には良いにちがいない。そして誰にしたって、媚態を欲する時はあるのだから、それはたしかに一つの存在として強い。しかし、もちろん、媚態というものは、本来の性質上、目的のためには手段を選んだりしない。ところが芸術は、これまた本来の性質上、目的のために手段を選ぶ。演劇は芸術だから、どちらかといえば、目的のために手段を選ぶ。だから、軽演劇が媚態だけに終始している間は芸術上の検討の日程にのぼせることには無理があろう。
残るところは新劇だけだが、これだけが、辛うじて、われわれの考察の題目になり得ると思う。と言うよりも今日演
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