芸術が常になによりもまず新奇を目がけることは是非の問題ではなくて芸術の運命のようなものでしょうから、君たちの多くがシュールやアブストラクトやアンフォルメなどへ自ら方向をとろうとしていることには、強い必然性があります。ことに青年が思いきってやって見ようとすることに無駄なことは何ひとつないと私は思っています。しかし最近のこのような傾向の中には、しんそこからの必然性を欠いて、単に新奇な流行への迎合の調子もかなり有るようです。それをまた新しいもの新しいものと追いかけるのが商売のような美術批評家たち――リードなどもその一人です――が煽っている形がある。いずれにしろクールベよりはミロの方が新しいことは事実としても、新しいだけのためにミロの方がすぐれているとするような底の浅い見方で創作や批評がされては、おもしろいことにはならないでしょう。
自分のことを語るのは気がさしますが、私は二十歳前後の時期に画家を志したことがあり、新しいものをいろいろあさったあげく、当時最前衛であったカンディンスキイあたりの作品と理論に強く動かされて、自分でも何十枚となく抽象的な構成主義の絵を描いたことがあります。その次にイ
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