過ぎなかった。この十年ばかりピカソの作品はその複製を見るたびにその愚鈍なマンネリズムで私を全く飽き飽きさせる。彼の作品全体は、もう盛りを過ぎて真に興味があるプレイができなくなった野球選手が、そのことを反省する力を失ってしまった不感の中でとくとくとしてスタンド・プレイを演じている姿のようにしか見えない。しかもそのスタンドに彼のプレイを未だかっさいして迎える大衆がいること、その大衆とそのプレイヤーとの関係のいやらしさと同じようなものを私は感ずるのである。
ピカソのことを天才だとする世間があるようだが、彼の作品から天才の持つ美・均整・鋭さ・単純さ・異様さなどを感じたことは私は一度もない。例えば彼の作品にある遠近法の逆用や多視角の併存や色彩のスペクトル化やお乳のそばにお尻を描くといった風のアブノルマリティや作品の多角性や多産などは天才のものではなくて、ただ精力的なだけの商人のもののように見える。たしかに才能には恵まれているようである。天才的画家の才能にではなく天才的ショウマンとしての才能に。
彼の後期の代表作だと言われる「グルニカ」などを見ても私には中位のできばえの戦争映画の中の戦場の場面の一コマを見ているほどの感銘もおきない。戦争の悲惨と平和への希望を無感動な念仏として抱いている文化的スノッブを予想して描かれた思いつきの平俗なパノラマだ。同じくショウマン画家にしてもマチスには美があった。絵画に対しても観客である一般大衆に対しても謙虚なものがマチスにあったからである。とにかく美しいパーフェクトリイを提供して人々の眼に奉仕しようという心がマチスにはあった。ピカソはただ人々をビックリさせて拍手させようと思うだけだ。人がビックリしている間はそれで良いがビックリしなくなると退屈する。
ピカソの絵は一見近代的なものに見えるが、彼が真に近代的であったことは一度もない。近代の科学性・自我意識・矛盾・人間性などは彼には全く無縁のものであって、彼ほど本質において古めかしく、その古めかしさを新しく見えるもので包みこんでいる画家は珍しいといえよう。ただ一つ彼が近代の絵画とその作者である画家との関係を非常に変えてしまったということだ。子供が遊ぶように絵をかき散らしたということ、そしてそのことに何十年となく飽きなかったということ。これはある意味でたしかに偉い。あるつまらぬことをはじめ、それを毎
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