「う訳ですから、ゴーガンさん、お願いです。どうか一つ――兄を説きつけることの出来るのは、あなただけなんです。兄はあなたを怖れています。いや怖れていると言うわけではないんですが、つまり尊敬しているのです。一番頼りにしているのです。あなたのおっしゃることなら、何でも兄は聞きます。忠告してほしいんです。お願いですから――このままで行けば兄の頭はどうにかなってしまいます。兄は病人なんです。どうか、ゴーガンさん、あなたの力で――
ゴー フフ。(笑うが、顔は笑わない)私は看護婦じゃないよ、テオドールさん。……(所内を見わたして、ロートレック、ベルナール、ベルト・モリソウ、タンギイなどを目に入れるが、別に目礼もしないで、売台の所のおかみを見て、初めて微笑)やあ今日は、クサンチッペ。
おかみ いらっしゃいまし、ゴーガン先生。(このおかみはゴーガンを見ると妙に機嫌が良い)
ロート そうら、お前の色男が来たぞ! 見ろ、トタンにニヤニヤしやがって。
ゴー どうしたね、伯爵?
おかみ いやだと言うのに、どうしても飲めとおっしゃるんですよ、このブランディ。
ゴー そうかね。(と瓶を取って)のどがかわいた。……(一息に全部をラッパ飲みに飲みほして平然としてカラの瓶をおかみに返す。酒を飲んだような顔もしていない。その間にテオは、ベルトやベルナールに目礼する)
ロート ちえっ、タヒチの種牛め!(フラフラと元の椅子の方へ)
テオ (再びゴーガンに)ねえゴーガンさん、お頼みしますよ、この調子でやって行けば、兄は今にどうにかなってしまいます。目に見えているのですそれが。それに、私も、もうたまりません。兄がパリへ出て来てから私は、こうしてあなた、目方が五キロから減りました。たまらないのです。このままで行けば兄も私も共倒れになります。
ゴー 追い出したらいいじゃないか。
テオ それが、そ、それが出来るくらいなら、こんなに私苦労しやしません。兄は今絵のことで夢中なんです。まるで頭が絵のことだけで燃えるようになっていて、ほかのことを考えることが出来ないんですよ。何か話しても、まるきり相談にはならない。わかってくれようとはしないんです。兄としては、それも無理ないんです。オランダから、いきなりこっちへ来て――私がまだ早いからといくら止めても聞き入れないで、勝手にいきなり飛び出して来て、そして、あなた方の、この、印象派の皆さんの明るい色の中に叩きこまれて、カーッと昂奮してしまったんですよ。色を掴むんだ、太陽を手に入れるんだと言うので、あなた、がりがりと一日に五枚も六枚も描き上げているんです。見ていると、可哀そうになるんです。……兄の気性を知っているので、無理もないと思えば思うほど、私は兄が可哀そうになるのです。……私は兄を愛しています。
ゴー (ニヤリと微笑して)そう言う話は好かんな私は。大体、ヨーロッパのこの辺の人間が、愛するなどと言うと、こっけいでね。人を愛することの出来るのは、まあタヒチの女だけだな。
ロート それと種牛だけだろう、へっ、まったくだ!
ゴー そうだよ、トゥルーズ。
テオ いえ、私は、何よりも誰よりも、時によって私自身よりも兄を愛しています。嘘ではありません。
ゴー じゃ、追い出さないで、一緒に暮すんだな。(アッサリ言い捨てて、「タンギイ像」に目をつけ、ユックリそちらへ行く)
テオ ですから――いえ、この、そこの所をです、どうしていいかわからないので、お願いしようと思ってあなたにですね――(いくら言ってもゴーガンは「タンギイ像」を無表情な顔をして見ているだけで、取りつく島がない)
ベルト まあ、こちらへお掛けなさいな、ゴッホさん。どうなすったんですの?
テオ ありがとうございます、モリソウの奥さん。いえ、この、兄のことではホトホト手を焼いていましてね、どうしようかと思っている所に、ちょうど、タンブランでゴーガンさんに逢ったものですから、お願いしようと思って、こうして――
ベルト そうですの、タンブランにいらっしたんですの? 私たちは、これから行くんです。どんな具合、それでお客さんは? ちっとは絵は売れてます?
テオ まだ一枚も売れていません。レストランでの絵の展覧会は珍しいので、客はまあ相当来ているようですけど。
エミ すると兄さんもタンブランですか?
テオ いえ、今日は朝から郊外の方へ写生に出かけて――シニャックさんと一緒じゃないかと思います。外に描きに行ってくれると、いくらか助かりますけど、帰って来ると忽ちまた、イライライライラして、とにかく一日中昂奮しているんですから。夜は夜で私をつかまえて、絵の議論です。私はこの、昼間のつとめで疲れていますし、それに身体もあまり丈夫でないものですから、静かにして早く寝たいと思っても寝せてくれません。寝せてくれと言うと、怒り出すんですよ。徹夜して議論を聞かされるのが二晩も続いたりすると、私はもうフラフラで、頭が変になりそうなんです。それに兄には、物を整頓しようなどと言う気はまるでないのです。兄と一緒に暮すようになってから私の室は、まるでおもちゃ箱をひっくり返したようにメチャメチャになってしまいました。おまけに、絵具をあちこちに置き放す、それを踏みつぶす、着物にまでベタベタくっつくと言うテイタラクで、もうどうしてよいかわかりません[#「わかりません」は底本では「わかまりせん」]。……私はグーピル商会に使われている、平凡な勤め人です。まあ、キチンと生活して、身なりなどもキチンとしていなければならない立場にあります。兄と一緒に住んでいたんでは、到底それが出来ないのです。ホトホト私はもう疲れ果ててしまいました。どうしたらいいでしょうかね、ベルナールさん?
エミ ……(困って)僕にはよくわかりません。以前から兄さんは、今のような調子だったんですか?
テオ そうです。以前から何かに熱中すると、当分カーッとなってしまって、もうまるで夜も寝ないようになるし、ほかの事を忘れてしまうんです。それが続いて、今度はどうにかすると、ガクッと黙りこくってしまって、恐ろしく陰鬱になるんです。するうちに、またカーッとなる。その変り方が激しいんです。何かの病気じゃないかと言った人もあります。……そういう兄の性質を知らないわけではなかったんですけど、極く小さい時以来私とヴィンセントは一緒に暮したことがほとんどないものですから、実はこんなだとは知らなかったんですよ。それに、今度パリに来てからの様子は、これまでのそんな調子とはまたちがっているような気がするんです。私は心配でたまらないんです。ねえ、タンギイさん、どうしたらいいだろう私は?
タン そうですなあ。兄さんと言う人も、あなたも、善い人ですがねえ。
テオ そうなんだ。私はとにかく、兄が善い人間なことは間違いありません。兄としては悪気が有ってしていることではないんです、兄にはああしか出来ないのです。兄自身としては、一所懸命に人のことを考えたり人に親切にしたいと思ってそうしていることが、実際は人を苦しめ人に迷惑をかけているということが兄にはわからないんです。そういう人間です。エゴイスト――まるで、微塵も悪意を持たないエゴイスト――そう言った、わかってもらえるかどうか知りませんが、そう言ったエゴイストなんですよ。兄は実に善良な人間です。それなのに、兄と一緒には誰も三日とは暮せないんです。兄の中には二人の人間が住んでいます。一人はおとなしい、心の弱い、もう一人は粗暴で自分勝手な。その両方がいつも戦っているのです。つまり、兄はいつでも兄自身の敵だと言えます。そのために人を苦しめるのと同時に自分を苦しめているんです。わかっていただけるでしょうかね?
ベルト ええ、ええ、わかるような気がします。
テオ 兄をパリに来させたのは失敗でした。しかし、兄が一人前の立派な画家になるためには、やっぱりパリに来て、皆さんの絵を見て、皆さんと交際することが必要だったんですよ。そして、その効果は、たしかにあったんです。兄の絵がこの半年の間に明るくなって、技術的にも進歩しているのは事実です。でしょう、ベルナールさん? そうですね?
エミ そうです、それは確かにそうです。
テオ ですから、兄がパリに来たことを私は後悔はしていません。それに、あなた方も私の店で御覧くださった「ジャガイモを食う人々」――あの絵です。あの絵を兄がオランダから送ってくれた時に、兄さんの絵は暗過ぎる、もっと明るくならなければならない、今パリの印象派のすぐれた画家たちがどんなに明るい絵を描いているか兄さんは早く知らなくてはならない、と言ってやったのは私なんですからね。私には責任があるんです。それだけに私には、どう処置してよいか、わからないんです。
ベルト それは、部屋を捜して別々にお暮しになればよくはなくって?
テオ それも考えました。いえ、結局、そうするより仕方がないだろうと思って、捜してもらってはいますが、でもそうしてもパリに居て今のようにやっている限り、似たようなことじゃないだろうかと思うんです。
ロート じゃ旅行させるんだなあ。
テオ 旅行と言うと、どこへ?
ロート マルセイユかそこらの地中海岸あたりだなあ。ねえ、エミール、いつかそう言ったことがあるね?
エミ ええ。地中海、アフリカ――とにかく、太陽に近ければ近い程良い。そう言っていました。
テオ そいで、一人でですか? あの兄を、そんな遠くへ一人で行かせるんですか? そりゃどうも心配で、私――
タン いっそ、日本へ行ったらどうですかな?
テオ へ、日本?
ベルト 日本と言いますと? あの――東洋の?
タン あの方は、いつも言っていますよ。日本は太陽の国だ。太陽に一番近い。それから、これです。(と壁にかかっている浮世絵をグルリと指し示して)これを見て、日本へ行きたがっています。こんな色とこんな線を生み出した天才たちの居る国へ、そのうちに僕は必らず行く。死んでも行く。
ロート 死んでも行くか。フフ。ヴィンセントだねえ! 何かと言うとすぐに死ぬと言う。ハハ、この人生に耐えきれないんだなあ。自分の与えられたライフを悠々として享受することに耐えきれない。自分の命の財布の中から金をチビリチビリと小出しにして使っていられない。大急ぎで、一気に全部をはたかないと我慢が出来ない。ヒヒ、わが輩と同じさ、その点では。ただ、わが輩には、これを託するに酒がある。ヴィンセントにはカンバスが有るだけだ。そうして、わが輩は酒と心中する。ヴィンセントは間もなくカンバスに頭をぶっつけて死ぬよ。そういう運命だ、心配したもうな。
ゴー 始まった、猿の哲学が。
ロート うん? わが輩のが猿の哲学なら、お前さんのは牛の哲学かね? いや、哲学じゃない、牛の、いちもつだ。(ベルトに)これは失礼。
ゴー (相手の言葉は歯牙にかけないで)ああの、こうのと諸君はヴィンセントを憐れんだり、心配したりしているが、ふっ! 君たちにそんな資格が有るのかね? なるほど、人間としてはあの男は、ウジウジした、オランダの田舎者だ。キャアキャア騒いだりメソメソしたり、うるさい男だよ、ヨーロッパ文明のオリの中に飼われてヒステリイになっている猿さ。諸君と同じようにね。しかし、これを見ろ。(と「タンギイ像」を示す)こいつは猿の描いた絵じゃないよ。ウジウジしたりキャアキャア言ったりメソメソなんぞ、まるきりしてない。惚れ込んで、なんにも疑わないで、ウットリして、堂々と描いている。色にしたって、そうだ。塗り方にはスーラやピッサロなんぞの点描が入って来ているんで少し気に食わんが、まじりっけなしだ。マルチニックの透き通った海の水の中から太陽を見た時と同じ色だ、こりぁ。まるで土人の眼だ、こいつは。
ロート また土人か。ぜんたい、それは褒めてるのかい、くさしているのかい?
ゴー 黙れ、トゥルーズ! 君たちヒステリィ猿どもは、絵を見るには褒めるのとくさすのと二色しかないと思っている。ところが絵は絵だ。マンゴウがマンゴウであるように絵は絵だ。ホンモノとニセモノが有るきりで、理窟はいら
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