Aしらっぱくれていやあがる。そうだとも、あんな絵は馬鹿か気ちがいでなきゃ描かないんだぞ。ねえベルト。(モリソウは笑っている)ただで貰っても迷惑と言うしろものさ。
タン そうですかな? いや、ゴーガンさんの絵具代が二十五フランも溜っていましてね、どうしても払って下さらないもんですから、しかたなしにあの絵を、ああしてお預かりして置いてあるんですが、なかなか売れないんで弱っていますよ。
ロート どうせ、そんなことだろうと思った。売れるもんかあんな絵が、今どきのパリで。
エミ 二十五フランか。僕なら二百五十フラン出しますよ。ただし、目下一フランもないけど。
タン (ロートレックの言葉も、ベルナールの言葉も深くは理解できないで)え? いえね、とにかく、昨日などあなた、立派な紳士が飛びこんで来て、あの絵は逆さまに置いてあると注意してくれましたよ。上の青い所は、あれは空ですからと言いますとな、あんな空がこの世に在る道理がない、あれは海だ。そう言うんですよ、ハハ!
ベルト ホホ、まあねえ!(他の二人も笑う)
ロート は! そう言う豚どもだ!
おかみ (ベルトに)いらっしゃいまし、奥さん。どうぞこちらにお掛けんなって。(椅子をすすめる)
ベルト ありがとう。どうぞお構いにならないで――いえね、これから御一緒にタンボランの展覧会に行くんですの。エミールさんが、御主人の肖像をゴッホさんが描いているから、寄って見て行こうとおっしゃってね――これですわね。(「タンギイ像」に目をやる)
ロート いよう、やっちょる。(言いながら、ステッキを突きヨロヨロとびっこを引いて絵の方へ行く)……なんだ、もう出来あがってる。
エミ 一撃で描く。そう言うんですよ、いつも。実際、一昨日は半日かからないで、これだけ描いてしまったんです。筆がまるで刃物みたいだ。見ていて、僕は怖くなる。……
タン いかがなもんでしょうかな、絵の出来ばえは? 家内は、あんまり私に似ていないと言いますがな……(三人の画家は絵ばかり見て、相手にしない。しかたなしにおかみに)ええと、お前、お客さま方にコーヒーさしあげてくれ。
おかみ え? ……(ムッと怒ってタンギイを睨みつける)
ロート コーヒーなんて、堕落した飲み物を、わしが飲むと思うのか。わしは――(とポケットからブランディの瓶を出してラッパ飲み。しかし目は「タンギイ像」から離さない)
タン (客の手前、虚勢を張って)では奥さんとベルナールさんにコーヒーを持って来なさい。
おかみ ……(プリッとして、何も言わず上手の通路から奥へ去る)
ベルト きれいだ! ホントにきれいな色! ですけど、どうしてこの方は、こんな人の真似をなさるんだろう? 構図はゴーガンさんだし、日本の浮世絵なんぞグルッと描きこんだりしたのは、言わば、まあ、アンリ・ルッソウじゃなくって? タッチにはスーラさんも取り入れてある。
エミ 僕はそうは思わないですね。なるほど、影響は受けています。非常に素直だから。素直すぎるんです。なにしろ、去年、アントワープからパリに出て来て、出しぬけにマネエやピッサロやゴーガンを見さされて、たまげてしまって、自分も明るい色を手に入れなきゃならないと言うんで、一週間ぐらいの内にパレットの絵具をすっかり取り変えてしまったくらいですからね。そう言う男ですよ。情ないくらいに謙遜な、特にゴーガンの前ではまるで卑屈なんです。見ていて泣きたくなるくらいに気が弱い。
ロート 弱いかねえ? わしには猛烈すぎるように見えるがねえ。ゴーガンは人間は強引だが、絵では、自然と仲良くやって、つまり自然を撫でたりさすったりしている。こいつは、歯をむいて、噛みつこうとしている。ふん。……セザンヌが、こないだ、奴さんの自画像を見て「この人は気ちがいの絵を描いてる」と言ったっけか、フフ、さすがに、うがったことを言う。もっとも、そう言う夫子自身、ちゃんともう気がちがっているがね、へへ!
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そこへ、しかたがないと言ったふくれっ面で、おかみが三人分のコーヒーを盆にのせて持って出て、茶テーブルの上に並べる。
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エミ すみませんねえ、おかみさん。(おかみは黙々として、右手の売台の方へ行く。タンギイは立ったまま先程から三人の話をむさぼるように聞きいっている。表の飾窓の所には、着飾った若い夫婦が中の絵をしきりに[#「しきりに」は底本では「しきにり」]覗いている)
ベルト すると、トゥルーズ、あなた御自身はどうなの?
ロート もちろん、気がちがっている。こうして、曲った背中と、なえた足を持って貴族の家にオギャと生れた瞬間からね。(再び瓶から飲む)
ベルト あなたの言うことを聞いていると、たいがいの人が狂人みたいだわね?
ロート そうさ、この世の中は元から気ちがい病院でね。ただ、幸福な気ちがいと不幸な気ちがいが居るだけだ。スーラだとかセザンヌだとかマネエだとかピッサロは幸福な気ちがい、なかんずく、われらが税関吏アンリ・ルッソウは幸福なる気ちがいの最たるものだ。そのほかは、みんな不幸なるおキチさんでね。なあエミール。
エミ 僕は、まだ気ちがいでもなければ不幸でもありません。これから、どっちかになるんですよ。
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飾窓を覗いていた若夫婦が少しオズオズしながら入って来て、売台のおかみに、飾窓を指して何か言う。おかみは飾窓の所へ行き、ガラス戸を開いて、フチに入ってない小さな絵を取り出して売台の所へもどって来て、客に見せ、双方で小声で何か掛け合っている。
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ベルト すると私などは、どっち?
ロート あなたは幸福なる――いや、あなただけは気ちがいじゃないね。まあ、気ちがい病院の看護婦と言う所かな。
ベルト あら、どうして?
ロート あなたは、金持ちの銀行屋の御亭主を持ち、愛し愛され、そしてサロン風のアトリエに坐って程よく美しい花の絵などを描いて、そうやって四十過ぎになっても三十前のように綺麗で色っぽくてさ、まだ恋愛の一つや二つはいたしましょうと言う――
ベルト よござんす。たんと皮肉を言って、おからかいなさいまし。
ロート からかうなどとは、とんでもない。うらやんでいるんです。ゴーガンなら皮肉を言うでしょうが、私は、うらやましい。ゴーガンは土人だ。私は地獄に落ちたウジ虫でね。このまま、バイドクと脳軟化とアルコールでグジャグジャと腐って行くことが残されているだけだ。「淫婦のごとく、脚空ざまに投げ出して、血にたぎり毒素を放し、しどけなくふてぶてしいザマをして、悪臭みてる腹をひろげて横たわる」うまいことを言やあがるボードレールと言う奴は。「悪臭みてる腹をひろげて横わる」
おかみ (売台の所から)ねえお前さん、ちょいと――(声が大きいので、こちらの話はやんでしまう)
タン ……え、なんだね?
おかみ このお客さんがねえ、このりんご、一つだけ売れないかとおっしゃっているんですけどねえ?
タン うん?(そちらへ行きながら)りんごを一つと言うと――?
おかみ これさ。セザンヌさんの、この――(カンバスをこっちに向けると、りんごが四個置いてある)いくらだとおっしゃるから、二十フランと申し上げたらね、四つは多過ぎる一つだけ欲しいとおっしゃってね。(こちらの三人は、びっくりして見ている)
タン しかし、一つだけと言うのは――
夫 いや、その、なにしろ、あっしの所では今度、スッカリ店の手入れをしましてね、その方に金をつぎ込んでしまって、この――あっしはラピック通りで八百屋をやっていまして、今度、まあ果物も置くようにしまして、この――いえ、今日は、家内の妹の誕生祝いによばれましてね、その帰りでさあ、そこの窓でチョットこの、絵を見かけたもんで、家内とも相談しましてね――
婦 (まだ二十くらいのパリの下町の、あまり教育のない、しかし可愛い嫁。ういういしくはにかんで)とても、あの、良い絵だもんですから、ロベールに私が言ったんですの。果物の店は、あの、綺麗にして、なんですわ、美術的にして置かないとお客さんが寄り付いて下さらないから――
夫 そいでまあ、このりんごの絵なら飾っとくのに打って付けだと思いましてね。そこで、こんなに絵具がたんと塗ってあるんでやすから、二十フランは別に高いとは言うんじゃねえんですけどね、この、店の手入れに、えらい金がかかったんでね、まあ、一個だけ売ってもらえるとありがたいってわけで、なんでさ、四つで二十フランだから一個なら五フラン――
タン ……(さっきから、たまげ切って口だけパクパクさせていたが)だが、一個だけ、この、売ると言っても――そりゃ、せっかくの何だから、なんですけど、とにかく、四つ、こうして描いてあるんだから、それをあんた、どうして――
おかみ じゃ、これ、ハサミで切り取って差しあげたらどうだろう、一個だけ。ね、そうすりゃ、また残りも売れるんだから。(棚から大鋏を取り出す)
タン ま、ま。待ってくれ! 困ったなあ。いえね、これはあなた、セザンヌと言う、この、まあ天才の絵かきさんの描いた絵でございましてな。
婦 はあ、ホントに立派な絵ですわ。うちのロベールは美術品には、それはもう眼がないんですの。
タン ですけどね、この切って売ったとなりますと、セザンヌさんがガッカリなさるだろうと思いましてな、この――
夫 わたしんちなんざあ、どんな果物でも一個売りをことわったことあねえんですけどねえ。お客有っての商売だからね。
おかみ いいじゃないかねお前さん、この絵は絵具代のカタにセザンヌから受取ったもんなんだから、家のものだろ? なら売ろうと、どうしようと、こっちの勝手じゃないか。
タン そりゃそうだが、これ、切ってしまうとなると、いかになんでも、この――(客に)決して売りおしみの何のと言うわけじゃございませんが、どうも都合がございまして、今日の所はまことにすみませんが、どうかまあ、ごかんべん下さいまして――
夫 そうかねえ。(しぶしぶと)無理に買おうと言うんじゃねえ。……(妻の腕を自分のわきに取りながら)なんだな、売られないものは店から引っこめとくんだなあ。シュゾン、行こう。
婦 あの、おじゃまさま。(二人、腕を組んで出て行く)
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その後姿が見えなくなるまで、見送っていてから、こちらの三人が同時に笑い出している。
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ロート ヒッ! ヒヒ、ヒヒ!
ベルト ホ、ホ!
エミ ハハハ、ハハ!
ロート 今のを、ヒヒ、今のを、セザンヌに、ヒヒ、聞かせたかった! ワッハハ。
タン (これもニヤニヤしながら)どうも、この――
おかみ (笑っている人々をジロリと尻眼にかけた末にタンギイに)なにが、おかしいんです、また商いをしそこなったんですよ! こんな絵、切って売って、どこが悪いんです?
ロート (テーブルを叩いて喜こんで)まったくだあ、切って売ってどこが悪い! ねえベルト! みんな気ちがいだろう? ハッハハ。(他の三人笑う)
おかみ (これも笑い出してしまって)気がちがっているのは、あんた方だけでございますよ!
ロート そうだそうだ、クサンチッペ万歳! よし、これを一つ献じよう。(ブランディの瓶を差し上げてヒョコヒョコ歩いて、売台の方へ)
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そこへ、表からポール・ゴーガンを先きに、それに後から追いすがるようにして何か話しかけながらテオドール・ゴッホの二人が入って来る。……ゴーガンはドッシリと重々しい感じの大男で、自我を制御する力を持った人間特有の無表情さで、いくらテオから話しかけられても、すましている。アストラカンの帽子に、濃青色の大きなマントに東洋風のステッキ。テオは例の通りキチンとした黒服で、この前より顔色が青い。
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テオ (話のつづき)そう
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