辷齦熄oて)シィヌさん、私は、あの――
シィヌ ええ、ええ!(振返ってテオの方を見る、酔眼でテオをモーヴだと思っているのである)どうせ、あたしは共同便所ですからね! 臭いでありますよ! 紳士さまがたのお歯には合わないでありますよ! ハハハ、へっ! 何よう言ってやがるんだ! さ、行こう小母さん!
ルノウ 困るねえ!(シイヌに引っぱられながら)ねえゴッホさん!
ヴィン お願いだ、シィヌ! シィヌ!(引き戻そうとする)
シィヌ 石炭酸で、ようく洗いなよ。あたいにゃ病気があるんだから。うつってんだよ、お前さんにも。(ヴィンセントの手を振り切って)絵かきがバイドクになったらなんになるんだっけ? ハハ、ヒヒ!(笑い捨てて、酔っぱらいのクソ力で、ルノウのおかみを引っぱって、ドアの外へドタドタと消える)
ヴィン ……(叩きのめされたようにグタリとして、戸口のわきに立ちつくしている)
テオ……(これも、急には何も言えず、動かない)
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――間。遠くで、はしけのホイッスル。
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ヴィン ……テオ。(力なく、こちらへ歩いて来る)
テオ 兄さん。……(なんにも言えず、そこの椅子に兄をかけさせる)
ヴィン ……僕は、まちがっているんだろうか?
テオ そんな……兄さんは、まじめに、なにしたんだから……
ヴィン 駄目だ俺は。……ただ、可哀そうなんだ僕はシィヌが。……先刻ね、モーヴとワイセンブルーフが、あれを侮辱した。いや、モーヴは別に、そうしようと言う気があってしたことじゃないけど。……そいで、そのためにシィヌは、ああなったんだ。……僕はどうすればいいんだろう?
テオ ……私には、なんにも言えない。どうしろと兄さんに言うことは出来ません。……しかし、兄さんが悪いためじゃない。兄さんが悪いんじゃない。
ヴィン いいや、俺が悪い! ……俺は実に、自分のわきの人間を、みんなダメにしてしまう。疫病神のような人間だ俺は。現に、絵を描くために、お前にこんな迷惑をかけたり、――(言っているうちに、ちょうど前に置かれた全紙の素描に目が行き)こ、こんな、うす汚い絵を描くために!(ガッとその板を掴んで、片手でその木炭紙を引き裂こうとする)
テオ 兄さん、何をするんだ!(と、そのヴィンセントの手を掴む。その拍子に板が動いて、素描がこちらに向く。シィヌの裸体の坐像)
ヴィン 見ろ! シィヌの言う通りだ。子供のラクガキみたいな、うすっ汚い――(スーッとあたりが暗くなる)
テオ そんなことはありませんよ!
ヴィン (ほとんど泣き声)俺は三十だ。だのに、この通り、まだデッサンひとつ、ちゃんとやれない。……死んだ方が、ましだ。どうすればいいんだよ。え、テオ?
テオ そんな、そんな、気を落しちゃ、いけない! 兄さんには描けるんだ。よく、ごらんなさいこの絵を。ようく、ごらんなさいよ、この絵を。
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既に真暗になってしまって、ヴィンセントの姿もテオの姿も、室内の影も全部見えなくなり、「悲哀」の素描だけがクッキリと浮びあがって見える。……隣室でヘルマンのまた泣き出した声が弱々しく低く聞え、続く。……
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3 タンギイの店
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軽快な浮々とした音楽。
パリの町の、繁華の場所からチョット引っこんだ、古いクラウゼル街の、ペール・タンギイの絵具屋の店内から街路を見たところ。店と言っても、ごくささやかな、浅い内部で、一番手前に茶テーブルと二、三の椅子、上手は絵具を入れた箱の並んだ棚を背に売台になって居り、下手はガラスの飾窓の中に額に入れた数枚の絵が、裏向きに(つまり奥の街路から通行者が見られるように)並べてあり、開け放たれた正面の入口へ十歩も歩めば、すぐ外は横町の街路である。
よく晴れた、しかしシットリと明るい秋の午後の、路ばたに一、二本見えるマロニエの葉がすこし黄ばんで、その下を人通りがチラホラ。入口の柱や窓のワクや売台から、ハメ板まで眼のさめるような碧色に塗られ、それが外景の軟かい白や薄黄に対照する。……上手の手前に店の奥への通路。下手の茶テーブルのわきに斜めに片寄せたイーゼルの上に半分描きかけの「タンギイ像」がのっている。壁のあちこちに、フチに入れた浮世絵の版画が四、五枚と、フチに入れない小さい油絵が二、三枚。
上手の売台の中に立って、下手の「タンギイ像」によく似た、ただしそれから麦わら帽子だけをぬがせたタンギイが、若いボヘミアン風の画学生に絵具を売っている。表では通りがかりの娘が一人、めずらしそうに飾窓の中を覗きこんでいる。
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学生 オークルを、もう一本。
タン もうそれでいいでしょう。
学生 またはじまった。僕は風景を描くんだぜ。オークルがなくて、どうして描けるんだい?
タン さあ、それは私にはわかりませんな。とにかく、もう絵具は有りません。
学生 小父さんちは絵具屋だろう?
タン そりゃ、そうでさ。看板にもちャンと書いてあります、絵具販売業、タンギイ。
学生 だから業じゃないか。業なら客に売らなくちゃなるまい?
タン 売りますよ、売るぶんにはいくらでも。
学生 だからオークル一本。
タン 聞きますが、売ると言うのは、品物をお客に渡して、お客から金をもらうことでしょうな? あなたは、この前の分も、まだ払ってくださらない。
学生 だから、こんだおやじから金が送って来たら、今日の分もいっしょに、くださろうと言ってるじゃないか。信用しないかね僕の言うのを?
タン 信用はしますけどね……困りますねえ、とにかく、家では家内があんた、やかましくって。
学生 ははん、クサンチッペか――(店内を見まわす)今日は留守かね?
タン 奥に居ますけどね、とにかく私が後でえらく叱られますから。
学生 クサンチッペとはよく言ったな。ゴーガンが初め言い出したんだって?
タン そうですがね、ありゃ、どう言うわけがあるんですかね?
学生 へえ、知らないのかい? ハハハ、こいつは良いや!
タン どうでゴーガンさんだ、やっぱり悪口でしょうな?
学生 いいや、褒めたんだよ。ギリシャの大哲学者ソクラテスの妻君クサンチッペ。美人でね。ただ少し、口が悪かった。ハハハ、とにかく、だから小父さんはソクラテスと言うことになるじゃないか。
タン 冗談でしょう、へへ。
学生 だから、オークルを貸せよ。
タン 困ったなあ。
学生 それに小父さんは、貧乏絵かきのパトロンだろう? みんなそう言ってる。ペール・タンギイこそ、新しいパリ画壇の守り神である!
タン おだてたって、その手には乗りません。そいつで今までずいぶん引っかけられて来たんだから。第一あなた、こんなちっぽけな店で、そうそうナニしていたんじゃ、忽ち破産ですからね。せいぜい私らに出来ることは、若い絵かきさん方に時々僅かの融通をしてあげるくらいのとこでさ。それと言うのが、私あ絵が飯よりも好きですからな。
学生 その若い絵かきさんじゃ僕はないの? だからさ、よ! その僅かの融通を、ね頼むよ。(十字を切って)金が来たらきっと払う、サン・ラザールのマリヤにかけて!
タン ……どうも、しようがないなあ。じゃま、こんだ必らず払って下さいよ。ええと、二十フランに、今日のぶんが、オークルを加えてと、九フランと、二十サンチームと――(言いながら、棚の箱から絵具のチューブを出して、今までの二本に加える)
学生 ありがたい、助かるよ……(と、ホクホクしながら、そのへんを見まわしていたが、「タンギイ像」に目をとめて)ほう、小父さん描いたの? 似てるなあ。自画像ってわけだね?
タン へへへ、やあ、そういうわけでもありませんけどね……ちょっと、その――はい、これ。(とチューブを渡す)
学生 ふむ。……(絵をジロジロと見て)おもしろいじゃないか。思い切って荒っぽい所が良いよ。われわれ玄人には、こうは描けんな。(ニヤニヤ笑いながら)恐いもの知らずと言う奴だね。ふん。
タン わしは、それが、気に入っているんですがね。
学生 しかしね、絵を本気でやって行くつもりなら、もう少し絵具を殺して描かないといかんな。これじゃ、みんな生だよ。それに、いくら商売物で絵具はいくらでもあると言ったって、いきなりこんなにどっさり塗っちゃ駄目だよ。まるで、ダブダブに盛り上っているじゃないか。
タン なるほど、そんなもんですかねえ。
学生 まあ、しっかりやりたまい。じゃ、さいなら。(手のチューブを振りまわしながら出て行く)
タン へい、ありがとうござ――(途中で言葉を切って、ゴマ塩ひげの頬をガシガシ掻きながら学生を見送っている。――その学生は、通りすがりに、先程から飾窓を覗いている若い娘をからかう。娘がモジモジした末に、コケットに笑いながら通りを小走りに向うへ逃げて行く。それを追って画学生も駆け出す。それらが全部見える――パリの裏町の秋の午後のちょっとしたパントマイム)
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どこかの教会の鐘が、鳴っている。
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おかみ あなた――(言いながら、上手の通路からコトコト出て来る。小柄な五十ぐらいの女)お客さんでしたか?
タン うむ、いや、コルモンさんのアトリエに居る、若い絵かきさんで、たしかマルタン――
おかみ また、絵具を貸したりはなさらないでしょうね?
タン いや、そりゃお前、そんな――
おかみ あんたはチョットおだてられると、良い気になっちまって、ポイポイと貸しちゃ、それなりけりで、代金は払っちゃくれない、そのカタにわけのわからない絵など掴まされてばっかり居なさるんだからね。……コーヒーはここであがるんですか、奥にしますか?
タン そうさな、ここでもらうかな。……
おかみ でも、飲んでいる所へ絵かきさんでも来ると、そちらへも出さなきゃならないんだから――ホントに、いくらあんた金が有ったって、こんな調子だと、たまったもんじゃありませんよ。また、絵かきなんて言う人たちは、皆が皆どうしてこう、揃いも揃って、いけずうずうしいと言うか自分勝手と言うか、気ちがいじみて、グウタラなんだろう。因果なことにその絵かきさんが、家のお客なんだからねえ。
タン じゃ奥へ行って飲むか。
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言っている所へ、三人の人が通りの方から来る。エミール・ベルナールとロートレックとベルト・モリソウ。ベルナールは、温和な美貌の青年で絵具箱を肩にさげている。ロートレックは貴族的な黒の礼服を着た小男で、それほどの年でもないのに、一見五十過ぎに見える。ベルト・モリソウは富裕な夫を持った四十四、五歳の女画家で、ハデで上品な身なりと美しい顔のために、三十歳ぐらいにしか見えない。――三人はこの店に入って来かけて、飾窓の前でチョット立ち止る。ロートレックが、ステッキで、中の絵の一つを指している。
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おかみ そら、おいでだ。ロートレックさんと、ベルナールさんと、あの奥さんは何とか言ったっけ――
タン モリソウの奥さんだよ、ベルト・モリソウ。綺麗な絵を描く人だ。……(言っている内に三人が店に入って来る。タンギイその方へ寄って行き)これは、いらっしゃいまし、モリソウの奥さん、良いお天気でございますな。
ベルト (やわらかな会釈をして)モンマルトルの丘の上から見ると、空がルリを溶かしたように見えてよ小父さん。パリは今頃が一番ですわね。
ロート (酔っている。タンギイに)やい、詐欺師! また、うまくやりやがったな。どうして巻きあげた、あれは?
タン (相手の口の悪いのには馴れている。微笑しつつ)なんですかな、ロートレックさん?
ロート あのマルチニックさ、ゴーガンの。あれは小さいけどポールが離したがらないでいた奴だ。
タン 良いもんでしょうかね?
ロート へっへへ
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