フ良い仕事はなかなかないけど、やる気になりさえすりゃ、ハトバの仲仕だとか道路掃除の人夫など、ないことはないねえ。
ヴィン よし、じゃ、それをやって見よう。……だが、すると、絵はいつ描くんです?
ルノウ いつ描くんだって、そりゃあんた、仕事をおえて、帰ってから夜でも描きゃいいでしょう。
ヴィン 駄目だ。夜じゃ色が見えない。色が見えなきゃ、ホントはデッサンも出来ないんだ。色彩とデッサンとは別々のものじゃない。僕は早く色を掴まなきゃならない。
ルノウ へえ、色をね?(眼をむいている)
ヴィン それに時間が足りない。そうでなくても、僕はもう三十だ。始めたのが、ほかの絵かきよりもズッとおそかった。レンブラントもミレエも三十の時には、とうに立派な仕事を仕上げている。僕は急がなきゃならないんだ。人が五年かかってやることを三月でやらなきゃ。急がなきゃならない。
ルノウ だってあんた、どうせ絵なんて、まあ道楽に描くんだから、急ぐったって、なにもそんなに血まなこにならなくたって――
ヴィン そうじゃないんですよ。そうじゃない。僕は、じゃ、どうしてやって行けばいいんです?
ルノウ どうしてって、あんた――そんじゃ、なんじゃないの、まあ、やって行けるようになるまで当分絵を描くのは、よしとくんだね。
ヴィン よす? ……すると、僕は、どうして生きて行けばいいんです?
ルノウ え? ……(頭がもつれて)ですからさ、生きて、この、暮して行くためには、絵を描くのをやめなきゃならないなら、また当分がまんしてですよ――
ヴィン 絵を描かないで、どうして僕は生きて行けるんです?
ルノウ だからさあ、いつまでも絵ばかり描いていると、あんたもシィヌも死んじまうことになるから――
ヴィン そうです、絵を描かないと、僕は死ぬ。そうなんだ。
ルノウ ……(あきれてしまって、口を開けてヴィンセントを見ていたが、不意にゲラゲラと椅子の上でひっくり返りそうに笑い出す)ヒヒ! フフフ、アッハハハ、なんてまあ、ヒヒ! アッハハ、ハハ、アッハ。
ヴィン ……(びっくりして、おかみを見ている)

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そこへドアが外から開いて、キチンとした身なりのテオドール・ヴァン・ゴッホが、急いで入って来る。
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テオ 兄さん。……(ルノウのおかみが、まだ笑っているので、びっくりして立って見る)……兄さん!
ヴィン ああ、テオドール! ……(かけ寄って抱く)
テオ どうしたんです?(おかみの方を気にしている)
ヴィン (身体を離して)いつ、来たんだ、テオ?
テオ ヌエネンに行ったんです。パリを一昨日立って。そいで急に、兄さんに逢いたくなったもんだから。
ヴィン よく来てくれた、よく来てくれた。(言いながら、喜んでソワソワと椅子をすすめ)何かね、お父さんやお母さんは元気かね?
テオ (ルノウのおかみに、えしゃくをしてから)元気です。……兄さんのことを心配なすってるもんだから、そいで、僕――
ヴィン ああ――(と先程のモーヴの手紙のことを思い出してテーブルの方をチラリと見て)……すると――そのへんで、モーヴに、君、逢いはしなかった?
テオ すると、モーヴが来たんですね? 何か言ったんですか? 手紙のことを言ってやしませんでしたか、お父さんからの――?
ヴィン 読んだ。君からの手紙も読ましてくれた。
テオ そうですか。いえ、ヌエネンに行って聞くと、お父さんも二、三日前にモーヴあてに兄さんのことを書いた手紙を出したと言うでしょう? 僕も実は五、六日前にパリから同じような手紙をモーヴに出してある。もしかすると、その二つを持ってモーヴがここへ来て、手きびしいことを言やあしないか。……すると、同じような手紙を二通も読まされたら、兄さん、こたえ過ぎやしまいか、こいつは、いけないと思ってね……実はそれが心配になったもんだから、こっちへ廻る気になって、そいで停車場から馬車を雇って、モーヴの所へも寄らないで、急いで来たんです。
ルノウ あんたが、するとパリにいらっしゃる弟さんだね?
テオ やあ。(ヴィンセントに)手紙のことは、あんまり気になさらんで下さい。
ヴィン モーヴは、そして、絶対にシィヌと別れろと言うんだ。別れなければ今後一切めんどうは見ない。……だけど、テオ、僕として、それをどうしてウンと言えるかね? そしたら、モーヴは怒って帰ってしまった。そりゃ、お父さんや君に始終心配ばかりかけて、僕はすまないと思う。しかし――
テオ いいんです、いいんです。お父さんは、とにかく、ああして牧師なんですからね、手紙に書くと、どうしてもこの、道徳的なむつかしいことになってしまって、この、厳格な調子になる。そこは兄さんも理解してやらないといけないと思うんだ。僕の手紙は、ただ兄さんのことをくれぐれもよろしく頼むと言う意味の手紙で、しかし相手があの調子のモーヴだから、こっちの書きようも少しきびしくなるんで――
ヴィン ありがとうよテオ!(テオの手を何度も握りしめる)ありがとう! 実はあの手紙を読まされて、君から見捨てられやしないかと思った。お父さんは、まあ、仕方がない。しかし君から見捨てられたら僕はどうしていいかわからなくなる。ありがとう!(涙声になっている)
テオ いいんですよ、そんな、――いいんですよ兄さん。(ボロボロ泣いている。それをテレて笑って)馬鹿だなあ、兄さんを僕がどうして見捨てることができるんです? 兄さんは、これから立派な画家になる。そうですよ。そして、画家の仕事は戦いだって、ミレエの言葉を、手紙に書いてよこしたのは兄さんだったじゃないですか? アンダーラインまで引いてね。ハハ。
ルノウ いいねえ! 兄弟衆の仲の良いと言うもんは!(彼女流に、しんから感嘆して)そうですよ、ここのゴッホさんは、腹ん中のきれいな人ですからね。弟さんもまた、良い弟さんだねえ!
テオ (ヴィンセントに)こちらは、あのう――?
ヴィン 食料品屋のルノウと言って、僕がいつも厄介になってる――
テオ そう。そりゃどうも。どうか一つ、今後ともよろしくおたのみします。
ルノウ へえい、なにね、大したことは出来ませんですよ。なんしろ、ちっちゃな店でね、カケの二つ三つ倒されりゃ、それでポシャツちまうような身上ですからね、へへ、今もあんた、それなんですよ。待ってあげたいなあヤマヤマだけんどさ、六十フランとなると、わしらの店では大金だからね。それがねえと毎日の仕入れも出来ねえような始末だ――
テオ (聞きとがめて)六十フラン、では、カケが溜っている――?(兄を見る)

ヴィン (すまなそうに)そうなんだ。シィヌの母や子供たちの方へも食い物をまわさなきゃならないんで――
ルノウ (ツケをテオに見せながら)しかしまあ、こちらにねえとあれば仕方がねえから、もう少し待たざあなるめえと思っていたとこでね――
テオ そう、それはすまなかった。(兄に)ちょうど、送ろうと思って五十フランをここに持って来ています。ここんとこ僕もちょっと苦しくって、今、他に持ち合せがないんだが、帰ったら都合して残りもすぐに送ります。(言いながら、五十フランを出して、おかみに渡す)
ルノウ いんごうなことを言ったようで、すみませんねえ。いいんですかあ? そんじゃまあ……助かりますよ、こいで。
ヴィン テオ、すまない。……
テオ なに、もう少し早くなにすればよかったんだが、なにしろ、僕もこれできまっただけの月給で、目下ギリギリ一杯なもんだから。間もなく、店の支配人にしてくれるらしいから、そうなれば、もう少しなんとか出来るから。
ルノウ 支配人ですって? 結構ですねえ。どんな会社におつとめで?
テオ グービル商会と言って、ギャラリイを開いて、この、絵を商っています。
ルノウ ギャ、ギャラ――へえ、絵をね? どうれ[#「どうれ」に傍点]で、兄さんが絵かきになろうと言うんですね。兄さんがセッセと描いたのを弟さんがセッセと売るんだね? へえ! よっぽど、この、絵なんてえものは、利廻りの良いもんですかねえ?
テオ (苦笑)いえ、それほど良いわけでもない――

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そこへ、ドアにガタンと音がして、外から、身体ごとぶっつけてドアを開けてフラフラと入って来るシィヌ。片手にヂンの瓶をさげている。
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ヴィン ああ、シイヌ、お前――(相手が足元もきまらぬ程に酔っているのを見てドッキリ言葉を切る)
シィヌ ――Sur le pont d'Avignon……
ルノウ あら帰って来たね。どこへ行っていたんだよ?
シィヌ え?(薄暗い室に、外から、いきなり入って来たのと酔眼のため、眼を据えて、すかして見て)あらあ、ルノウの小母さん、こんな所に来てたの? なあんだあ!
ルノウ どうしたんだよ?
シィヌ ハハ、あんたん所へ行ったのよ私。留守だろ? だから、しかたがないから、キューペルの酒場に寄って、これ――(ヂンの瓶を示して)借りてね、フウ!
ルノウ キューペルで、よく貸してくれたねえ?
シィヌ 小母さんちを訪ねて行って、またなにして稼ぐ気だって、あたいが言ったら、そんならまあ貸してやろうって――へへ!
ルノウ またなにするって、お前――(とヴィンセントの方を気にしてジロジロ見る。ヴィンセントは真青になって言葉もなくシィヌを見つめている)――なんせ、いい御きげんだね?
シィヌ 御きげんだわよう。ラララ、ラ、Sur le pont d'Avignon, L'on y passe, L'on y danse,――(ロレツのまわらない口調で歌いながら、スカートをつまみ上げてグルグルとワルツのステップ。あげく、スカートを踏みつけて、ヨロヨロと倒れる)
ヴィン シィヌ――(それを助け起こそうとする)そんなにお前――そんなに酔うほど飲むなんて――
シィヌ 酔ってなんか居ませんよう! 薬なんですからね。あたいには、これは薬なんだから――ひっ!(シャックリをしいしい、やっと助け起こされる)
ヴィン 僕がお前のことを、どれだけ何しているか、それを考えてくれたら、そんな――シィヌ、僕はお前と結婚しようと思っているんだ。だのにまたそんな――
シィヌ 結婚? へへ、結婚なら、してるじゃないのよ! なあによ? んだからさ、あんたあ、あたいを食べさせてくれて、その代りずうっとタダで私を抱いて寝たじゃないか? 何が不足があるのさ? そうでしょ?
ヴィン 僕の言っているのは、正式に式をあげて――
シィヌ 式? ふん、式かあ。式なら、良いとこの、そこらの紳士がたの――(と酔眼で、先程モーヴやワイセンブルーフの居た辺をキョロキョロとすかして見る。そこには、テオが先程からいたましさに耐えない顔をして立って、そちらを見ている)――お嬢さんと式をあげなさいよ! どうぞ御勝手に。いいわよう、あたいにかまわなくたって。
ヴィン シィヌ! 頼むから、お願いだから、少し落ちついてくれ! ね、クリスチイネ!
シィヌ あたしゃ、ハトバへ行って、ルノウの小母さんに頼んで、愉快にやるんですからね! ねえ小母さん!(ルノウのおかみに、かじりついて行く)そんな、紳士がたとのつき合いは、あたいの性に合わないんだ。水夫や荷揚人足相手に、ハシケの蔭かなんかで式をあげる方が気楽ですよ。シンキくさい、絵かきだなんて、薄っ汚い、子供のラクガキみたいな物描いて、理窟ばっか、こねてさ、シンキくさいったら! ヤだあ、そんなの、あたいは。もう、フルフル、ごめんだよっ!
ヴィン 頼むから、シィヌ、頼むから――
シィヌ 頼むから、小母さん、ハトバへ連れてってくれよ。頼むわよ。今すぐ連れてって!(ルノウのおかみを引っぱって戸口へ行きかける)
ルノウ そりゃね、なんだけどさ、そんなに酔っていたんじゃ――
シィヌ 酔ってなんぞ居ないと言ったら! へ、どんな男だって相手にして見せるわよ、ヘッチャラよ!
テオ あの――(見るに見かねて、隅か
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