рェ心配するのは、それさ。絵は文学とは違う。文学などから切り離して独立させなければ絵は良くならない。人生の意義だとか、人生にわたると言うか、そう言ったふうの物語を持ちこんじゃならない。絵はもっぱら美を、美しいものを描くべきだ。
ワイセ うむ、たしかに、そういう所があるね、これにも。文学が持ちこんである。(言いながら、眼を素描から引き離そうとしても離せない)……しかしだな、この絵には、だな、そう言う所もあるし、なんと言うか……荒っぽすぎる。だけど、……(ブツブツ言った末に、不意に厳粛な顔になったかと思うと、それまでかぶったままでいた山高帽子をぬいで、心臓のところに当て、片足を後ろに引いて、素描に向ってうやうやしく敬礼をする)
ヴィン (それをチラリと見るが、気が立っているので、その意味がわからない)そ、そりゃ、しかしアントン、あなたの言う通りかもわからないけど、僕は何も人生の意義だとか、文学なんかを持ち込もうとしているんじゃないんです。美しいと思うから――美しいと思えるものを描いているだけです。ただ僕には、ホントに人生に生きている人の姿――なんの飾りもなく、しんから生きている――泥だらけのジャガイモが地面にころがっているように、人生そのものの、どまん中に嘘もかくしもなく生きているものが、美しく見えるんだ。そのままで美しく見える。だから、そいつを描いてるまでなんだ。理窟だとか文学だとか、そんな――
モーヴ 見たまい、ワイセンブルーフが君の絵に脱帽した。飲んだくれの、しようのない男だが、絵の良し悪しだけはわかる男だよ。それがシャッポを脱いでる、ハハ。……ま、とにかく議論は、もうたくさんだ。するだけの忠告はこの半年間、私はしつくした。もう私も飽きた。今日来たのは、こうして――(とポケットから二通の手紙を出して、卓上にポイと投げ出して)君のおやじさんと、テオから手紙が来た。テオのは、二、三日前に来ていたんだがね。読んで見たまい。気の毒に、おやじさんもテオも君のことをそいだけ心配している。……(ヴィンセント、手紙を開いて、読みはじめる)私は、自分の責任として、このことを君に伝えてだな、最後の忠告をしたいと思って来たのさ。忠告を聞き入れてあんな女と別れて、気を入れかえて勉強しはじめてくれさえすれば、私の方は、君の従兄だ、家のアリエットも君に対しては好意を持っている、喜んで今後もめんどうを見てあげる。聞いてくれなければ、一切これっきりだ。絵の指導はもちろん、お目にかかるのも、ごめんこうむる。いいかね?
ワイセ ヘヘヘ、フフ!
モーヴ どちらが君自身のためになるか、よく考えて決めるがよい。私の言うことは、それだけだ。いずれとも君の好きなように。
ワイセ ハハ、ヘヘヘ!
モーヴ なにかね、ワイセンブルーフ? 何を笑っている?
ワイセ なにね、いや、説教はそれくらいにして、ここに来てこの絵を見たまい。
モーヴ うん? 得意のミシュレかね?(立って素描の所へ来る)
ワイセ 飲んだくれだけはよけいだが、君は今、絵の良し悪しだけはわかる男だとわしのことを言った。
モーヴ 言ったがどうしたんだ?
ワイセ だから、この絵をよく見たまい。なんなら、もう一度シャッポを脱ごうか?
モーヴ (それまでニヤニヤしていたのが、素描を見るや、スッと笑顔を引っこめる)……ふん。……(ジッと見ている)
ワイセ (これも絵を見ながら)手ひどい絵だ。なんともかんとも、ひど過ぎる。
モーヴ うむ。……(ほとんど嫌悪の表情で絵を見守っている)
ワイセ 美しくもなんともない。むしろ醜悪だ。絵ではない。
モーヴ 絵ではないな。
ワイセ それでいて、この中には、何かが在る。どんなものが来てもビクともしない、恐ろしいような、何かがある。泥だらけのジャガイモか……ふん……だから、これで、絵なんだ。
モーヴ ふん。
ワイセ ゴッホ君が君の言うことを聞けば、また絵の指導をしてやると言ったが、どっちにしろ、指導などするのはやめたまい。指導してはいかん。また、指導はできないよ君には。
モーヴ どう言う意味だね、それは?
ワイセ 君は良い絵かきだ。わしは好きだ。しかし、こんな絵を描く奴には――そいつの将来については――(と、先程からの二人の会話を全く耳に入れないでテーブルの所で手紙を読みふけっているヴィンセントに目をやり、一歩そちらへ進んで、再び山高帽をぬいで)脱帽! ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ!(ていねいに敬礼する)
ヴィン (気づいて、びっくりして)え? なんです?
モーヴ からかうのも、良いかげんにしたまい。
ワイセ からかっているのか、わしが? ハッハ! モーヴ、君は今までの絵の伝統にとりつかれているために、今の所、わからないような気がしているだけだよ。伝統の久しきにわたれば、すべてそれだ、君の罪ではない。ヴィンセント、君はこれでいいんだよ。この調子でグイグイ、ゴツゴツと描きたまい。ほかの絵かきが美しいなどと言うものを信用するな。自分がホントに美しいと思うものだけを、それだけを、描くんだ。
ヴィン (しかし彼はそれまでの話を聞いていなかったのと、父と弟の手紙を読んで非常にガッカリしているために、ワイセンブルーフの言葉の意味あいがわからない。苦しそうな、ションボリした声で)ありがとうワイセンブルーフさん。しかしまだ僕にはデッサンがチャンとやれないんです。
ワイセ これでいいんだよ。自分の眼を信用したまい。
ヴィン ……(モーヴに)アントン、それで、僕はどうすればいいんです? こんなにまで父に心配をかけ――母も僕のことをあんまり考えていたんで病気になったそうだし、それにテオはこうして「兄さんのことは、私の力に及ばないような気がします」と書いて来ているし……まったく、僕はロクでなしの、みんなの重荷だ。どうすればいいか、僕は、それを思うと苦しくって――
モーヴ だから、私の言う通りだな――
ワイセ ゴッホ君、聞くな! 君は絵かきだ。絵かきは絵さえ描いていればいいのだ。その他のことは、どうでも良い! ハタが困ろうと、親兄弟が泣こうと、うっちゃって置け。誰と寝ようと、梅毒になろうと、餓え死にしようと、そんなことはどうでもいい。絵さえ描いて行けばいいんだぞ!
ヴィン いいえ、僕は、とてもそんなことは出来ません。僕はこんなに弱虫で、みんなに迷惑ばかりかけているのが、とてもたまらないんです。早く、僕の絵が売れるようになれば、少しは――
モーヴ だからさ、そんなふうに思っているのが嘘でなかったら話は簡単じゃないかね。おやじさんもテオ君も、君が絵を描いて行くことそのものに反対はしていない。むしろ援助しようとしている。わしも同じだ。だから――
ヴィン しかし僕はシィヌと別れるわけには行きません。あれは僕と一緒になってから、やっと変な男たちを相手にしなくなりましたし、酒も飲まなくなった。それをまた、僕が突き放すと、どうなると思うんです?
ワイセ ハハハ、だからそう言うミシュレ好きの感傷主義を捨てろとわしは言っているんだよ。画家は絵のためには一切のものを踏みにじり、捨てなきゃ、いかん。たかが女一人が何だね?
ヴィン でも、僕には現在、全世界よりもシィヌ一人の方が大事なんです。僕は間もなくあれと正式に結婚しようと思っています。
モーヴ 結――? ……本気で君は、それを、言っているのか?
ヴィン 本気です。
ワイセ やれやれ。(両肩をすくめる)
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そこへゴトゴトと外からサボの音がして、ノックもしないで、ルノウのおかみさんが入って来る。身なりはひどく汚いが、まだどこか綺麗な四十前後の女。
[#ここで字下げ終わり]
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ルノウ (入って来てキョロキョロ室内を見まわし、モーヴやワイセンブルーフを認めるが、挨拶もしないでヴィンセントに向って、いきなり、まくし立てる)ああ、やっと居たねゴッホさん? やれやれ、私は昨日も一昨日も来たのに、絵を描きに写生に行ってるとかって、たんびに無駄足ばかりさせられて、ホントにまあ、絵だか屁だか知らんけど、しとを茶にするのもいいかげんにして下さいよ。やれ、どっこいしょと。(と勝手に椅子に掛ける)
ヴィン ああ、ルノウのおかみさん。
ルノウ ルノウのおかみさんじゃ、ありませんよ! あんた一体、内の借金をどうしてくれる気ですよ? こうして、ツケを持って来たがね、ごらんなさいよ、ミルク、バタ、玉ねぎ、ジャガイモ、そいからニシンと、みんな先月から溜っていて、みんなで四十フランあまり、それにパン代の立て替えが二十フラン、しめて六十フラン。いいかね? 時々クリスチイネがやって来ちゃ引っかけて行くヂンのお代は勘定に入れなくてもですよ。いつ来ても、もう二、三日すれば払うからとか何とか言って、あたしん所だってお前さん、慈善事業で食料品や野菜を扱っているんじゃないんですからね。
ヴィン わかっている。わかっているから、今度金が来たら、必ず――
モーヴ (椅子からスッと立って)ゴッホ君、これで話は片付いたと言うものだ。君は君の好きにやるさ。ただ今後、私の所には一切来てくれたもうな。では。(サッサと出て行く)
ヴィン (それに追いすがって)待って下さい、アントン、待って下さい。(振り切ってモーヴは戸外へ消える)
ルノウ どうしたんだよう!
ワイセ (これも立ち去りかけながら)さては、お前さんとこだね、ハトバの近くで、食料品のほかにもいろいろ商なっているルノウと言うのは?
ルノウ (ジロジロと相手を見て)そりゃあね、世の中あセチがろうござんすからね。なんでも売りますよ、儲けにさえなりゃ。
ワイセ 帆立貝なども売ってるかね?
ルノウ 売りますね、注文さえ有れば。へへ。
ワイセ じゃ、こんだ注文に行くかな。(言いながら、おかみのふくらんだ尻をキュッとこすって、すまして出て行く)
ルノウ 助平爺いめ。……ねえ、さ、ゴッホさん! どうしてくれるんですかね? 今日は、あたしあ、払いをいただかなきゃ、テコでも帰りやしませんよ。
ヴィン ……(戸のわきにボンヤリ立っていたのが、ユックリこちらへ歩いて来ながら)すまない。ホントにすまない。なんとかすぐに――
ルノウ ただすまないで、すむと思うんですか? あたしんちだって、ああしてあんた、露店に毛の生えたような店なんですからね、こんなにカケを溜められたんじゃ立ち行かないんですからね。こちらのクリスチイネが頼むからまあ――クリスチイネとはズット以前からナジミですからね、食べるものがないと言って泣き付かれりゃ、うっちゃっても置けないしね、それに、近頃じゃ、あの子のおふくろまで時々やって来ちゃ、バタなんぞ持って行って、あんたんとこの帳面につけといてくれと言うんですよ。しかしそれも無理もないさ、クリスチイネの子供を四人もおっつけられて養ってやってんだからね。とにかく、そんなこんな全部、ゴッホさん、あんたの責任なんだから、ただそうやって、すまないすまないで、三文にもならない絵ばかり描いていちゃ駄目じゃありませんかね? こんなザマだと、また、クリスチイネは、あたしん所へ金を借りに来ますよ?
ヴィン ルノウのおかみさん、どうか頼むから、その、あれを引っぱり出すのは、よしてくれ。
ルノウ 引っぱり出す? あたしが? 冗談言ってくれちゃ困るよう! なあによ――これまでだって、いつでもあんた、あの子の方から是非にと言って頼まれてあたしゃ、めんどう見て来たんだよ。こいでもあたしゃ、女郎屋のやり手婆あじゃないんだから。シィヌの身になって気の毒と思やあこそ――だって、おふくろや子供たちにも、仕送りはしなきゃならない、自分は年中医者にかかっている、で、あんたはその調子、すると女の身で金え稼がなきゃならないとなると、こいで、元手はウヌが身体だけだあね。ひひ。そうじゃありませんかね? そうさせたくなかったら、あんたが奮発して、何か仕事を見つけて稼ぐんだね。
ヴィン 僕にやれるような仕事があるだろうか?
ルノウ そりゃね、今こんな不景気だから、割
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