オているじゃないか。
シィヌ ケイさんに失恋しちゃって、あんたガッカリしてたのよ。そこへ私が現われたのよ。そいで、あたしが、あんまり憐れな有様なもんだから、あんたの気持にピッタリしたんだわ。つまり、憐れんだのよ私を。
ヴィン ちがう、ちがう。そんなことはないよ。僕は君なぞよりズットズットみじめな人間だ。神さまからも人々からも見はなされた人間だ。君を憐れんだり、どうして出来るものか。
シィヌ 憐れむと言うのが悪ければ、みじめな者同士が寄り合ったんだわ。たとえて言うと、捨てられた犬同士が寄って来て身体を暖ため合ってるの。
ヴィン それでもいいじゃないか、だから。人間には、ただ男と女として愛するとか惚れるとか言うより、もっと深い意味で愛すると言うこともあるんだ。……僕はミレエの描いた畑の絵を見ると、そこの地面に抱きつきたくなる。そこを歩いている貧乏な百姓女の足にキスしたくなる、……(シィヌの足を見て、いきなりかがみ込んで足の甲にキスする)こんなふうに。こんなふうに。
シィヌ いやあ、くすぐったいよ! フフ! あたしは百姓女じゃないわよ。
ヴィン なんでもいいんだ、僕は愛している。
シィヌ 無理しなくたって、いいの。ねえ、私は五人も父なし子を持ってる悪い女――
ヴィン 悪いのはお前じゃない。まちがっているのは、そんな目に君を逢わせて、どっかへ行ってしまった男どもだ。
シィヌ だって、それが男じゃないの。見ていてごらんなさい、あんただって間もなく、あたしなんかうっちゃって、行ってしまうから。
ヴィン 絶対にそんなことはない。誓う。
シィヌ 誓ったって駄目。いいえ、あんたのそんな気持はうれしいけどさ、男も女も世間も、そんなんじゃないのよ。あんたにゃ、わからない。あんたと言う人は、そう言う人よ。いえさ、聞きなさいよ。あたしは、一口に言うと、淫売婦だ。さっきね、ハトバから汽船のボウが聞えて来たわね? あん時、あたしが何を考えていたと思う? フフ、このおなかの子の父親のこと。いいえ、その男だったかどうかハッキリとはわからないけどさ、マルセイユ航路の貨物船の水夫でマルタンてえ名、とっても毛深くって、力が強いの、ギュッとやられると背中が折れそうなの、フフ、去年の秋三、四度ハトバで逢って、そいでなにしてさ、そいから、黙って行っちまった――日を繰って見ると、そうじゃないかって気がするんだ。その男のことを思い出していたのよ。あんたとこうして居ながらね。そう言う女。だから――
ヴィン そんな、それは、今までのことはどうでもいいんだ。問題はこれからだよ。ね、頼むから、シィヌ、頼むから、もうルノウのおかみさんの所へは行かないと約束してくれ!
シィヌ だって、そんなこと言ったって、お金がこんなになくっちゃ――それにおっ母さんの方の仕送りだってどうすればいいの? あんた、四人の子をおっ母さんにおっつけたまま、そんな――
ヴィン だからさ、それは今に必らず僕が引き取って、絶対にチャンとなにするから――大丈夫だ! ね、シィヌ、僕にまかしといてくれ。僕は正式にお前と結婚するつもりだ。
シィヌ だけどさ――そんなこと言ったって――(ヴィンセントを見ている内に、相手を理解出来なくなっている)……変な人だわねえ、あんたって――
ヴィン ルノウのおかみさん所にまた君が行って、変な男なぞとナニしたら、僕あ、殺しちまう。
シィヌ そりゃ、あんた……(ヴィンセントからゆすぶられて、されるままに頭や髪をグラグラさせながら、不思議なものを見るように相手を見ている。……互いに全く理解し合えない男と女の抱擁)……痛い。
ヴィン ……うむ?
[#ここから4字下げ]
その時、ドアが開いて、画家ワイセンブルーフ(五十歳前後)と、ヴィンセントの義理の従兄で同時に絵の師である画家モーヴ(四十二、三歳)が入って来る。ワイセンブルーフは零落した天才画家と言ったふうの、極端に投げやりな身なりの、顔つきも言葉つきもソフィスト流に皮肉で活気がある。モーヴは堂々たる身なりの、落ちついた人柄。――入って来るや、いきなり鼻の先におかしな形の抱擁を見せられて、二人ともあきれて、言葉も出ないで、突っ立って見る。やがてワイセンブルーフは、ニタニタと笑い出す。モーヴが左手のステッキで、戸口の板をコンコンと叩く。音に気がついてヴィンセントとシィヌが振り返る。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
シィヌ あら!
ワイセ (朗唱の調子で)昼は日ねもす、夜は夜もすがらくちづけの、か――さはさりながら、もうそこらでやめんかねえ。
ヴィン モーヴさんもワイセンブルーフさんも、いつ来たんです? ちっとも知らなかった。
ワイセ ちっとも知らないは、ひどかろう。いくらノックしても開けてくれないじゃないか。
ヴィン 聞えなかった。
ワイセ ごあいさつだ。ひひ!
シィヌ ……(恥じて、大急ぎで、膝の上の衣類で身体を蔽いながら)いらっしゃい。あたし、ちょっと[#「ちょっと」は底本では「ちよっと」]、あの――(困って、後ろさがりに、直ぐ上手につづいている小部屋「寝室」の方へ引っ込む。それを、にがり切って見送っているモーヴ)
ヴィン どうぞ掛けてください。(二人に椅子をすすめる)
モーヴ (突っ立ったまま)ヴィンセント、君は絵を描いているのかね、色ごとをしているのかね?
ヴィン え? そりゃ――
ワイセ 始まったね、モーヴ先生の訓話か。ハハ、そりゃわかりきっているじゃないかね。絵を描く暇々に色ごとをやっておる。または、色ごとをする暇々に絵を描いておる。同じだ全く。そして、それで何が悪い、え、モーヴ?(言いながら室内をブラブラ歩いて壁に立てかけてあるカンバスや半出来の素描などを一枚一枚見て行く)
モーヴ (それには相手にならないで、ヴィンセントに)人にはそれぞれのやり方がある。私も画家だ、人のやり方にうるさく干渉しようとは思わない。なんでもいいから、君が絵の勉強を一所懸命にやってさえくれれば、私はなんにも言わない――
ワイセ だが、案外に良いからだをしとるじゃないか。第一、ちょっとこう、荒れたような肌がいけるよ。五人からの子持ちとは、思えんな。ゴッホ君の好みもまんざらではない。見直したよ。うむ! そもそもこの、女の身体と言うものは――(フッと言葉が切れてしまう。ちょうどヴィンセントが描いていた全紙のシィヌの素描に目が行って、口がお留守になったのである。やがて、そのほとんど完成に近い絵の方へ三、四歩近づいて行き、妙な顔をして見ている)……
モーヴ (椅子にかけて)しかしねヴィンセント、私は君の従兄だ。それに君の両親やテオから、君の絵の勉強の指導をしてくれと頼まれている。つまり私には責任がある。それでこれまで、さんざん、いろんな忠告をしつづけて来た。だのに君は一つも聞いてくれん。石膏像のデッサンをもっとやった方がいいと言うと、アカデミスムはごめんだと言って、私に喧嘩を吹っかけて、石膏像を粉々に叩きこわしたね? いやいや、喧嘩のことはいいさ、とがめようとしているんじゃない。石膏像だって、それほど惜しいとは思わん。アカデミスムはごめんだと言うのもわかる。君も知っているように私自身アカデミックな絵は描いていない。むしろ反対だ。しかしだな、アカデミスムを、君のような意味で否定していいものかね? ……それを君は考えて見ようとはしない。そしては、こうして、意地になって、あんな女と、くだらない遊びにふけっている。その点を――
[#ここから4字下げ]
そこへ、なにも知らないシィヌが、大急ぎで仕度をしたと見え、来客たちに茶を入れて出すための道具をのせた盆を持って、隣室から戸口に現われるが、話が自分のことなので、立ちどまってしまう。モーヴもヴィンセントもそれに気づかぬ。ワイセンブルーフは無心に絵を見ている。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ヴィン 遊びにふけったりしてやしませんよ。シィヌを描いていたんです。第一、あなたはすぐにあんな女と言うけど、あれのどこがどうだと言うんです? 女が絵のモデルになるのが、いけないんですか?
モーヴ すぐそれだ。まあ聞きたまい。モデルモデルと言うけどね、なるほど時にはモデルもするにゃするけれど、実は――この、ハアグ中の絵かきが、あの女のことを何と言っているか、君は知っているのか?
ヴィン し、知りません。
モーヴ じゃ聞かせてあげよう。いいかね? 共――
ヴィン 黙ってください! 黙れ!
モーヴ なんだと――?
ワイセ やかましいなあ。
[#ここから4字下げ]
それまでジッと立っていたシィヌが、なんのこともなかったようにスタスタとテーブルの方へ行き、貧しい茶道具を一つ一つテーブルの上に置く。モーヴもヴィンセントも黙ってしまって、彼女の姿を見守っている。……その時、盆の上に最後に一つ残った茶わんが、小きざみにカチャカチャカチャと鳴る。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
シィヌ (その盆をガチャンとテーブルの上に置く。その拍子に茶わんが床に落ちてパリンと破れる。それを見ながら、しばらく黙っていてから、思いがけなく落ちついたユックリした語調で)そうなんですよ。……みんな、私のことを共同――
ヴィン 黙ってくれシィヌ! だ、だ――
シィヌ ……(言葉を切って、しばらくジッとしていてから、フッと顔を上げてヴィンセントを見、それからモーヴを見、再びヴィンセントを見た時にニヤッと笑い、それから、破れた茶わんのカケラをガリリと踏んでユックリと歩いて戸口から出て行く。それを見送っているモーヴとヴィンセント)
ワイセ どうしたんだよ?(しかしすぐにまた、素描の方に注意を惹かれてしまう)
ヴィン (急にモーヴに振り向いて)仮りにそうだとしても、悪いのはシィヌじゃないんだ。その証拠に、仕事さえ有れば、あれは洗濯や掃除に雇われてチャンと稼いで来ているんです。悪いのは、そんな仕事では食べて行けないほどしか賃金をくれないからなんだ。いや、そんな仕事さえも、時々なくなってしまう。あれは身体が弱いんです。その病身の、なんにも持たない、教育もない女が、一人っきりで、しかも五人の子供と母親を抱えて、やって行かなくちゃならないんですよ! 人間なら――いや、神さまだって――だのにアントン、あなたはあれを、はずかしめることが出来るのか?
モーヴ 私は事実を言っているまでだ。事実を言われて、はずかしめられたと思う者は、まず自分ではずかしいことをするのをやめたらよい。第一、君がこうして、絵の勉強はそっちのけにして、あんな女に同情したり、同棲したりしているのは愚劣だよ。そいつは、センチメンタルな人道主義遊戯だ。
ヴィン 絵の勉強はやっていますよ! いや、僕にとっては、これがホントの絵の勉強です。絵を本気になって描いて行けば行くほど、僕はシィヌに引きつけられて行くんです。いや、シィヌとは限らない、踏みにじられた者、打ちくだかれた者、つまり世の中の不幸な、善良な人間たちに――
モーヴ そらそら、君は不幸なと言う言葉の次に必らず善良なとつづける。それさ、甘っちょろい人道主義と言うのは。不幸な人間は善良だと、きめている。へ! 果してそうだろうかね? まあいい、まあいい。今にあの女は君に嘘をついて、悪い病気をうつすかもわからないぜ? 酒を呑んで酔っぱらって、君の絵をやぶくかもわからないぜ? ハハ、君はミレエの絵の感傷的な説教主義にかぶれ過ぎたんだ。ディッケンズやミシュレのお涙ちょうだい小説を読みすぎたんだよ。
ワイセ (先程から二人の議論をよそに、身動きもしないで、全紙の素描に見入っていたのが、やっといくらかラクな態度になり、モーヴの言葉をヒョイと耳に入れて)うん、ミシュレか。ここにも書いてある。ええと、「悲しみ。世の中に弱い女が唯一人、打ち捨てられていて、よいのか? ミシュレ」
モーヴ それ見たまい。君はそんなふうな感傷的な文学を絵の中にまで持ちこんでいるんだ。
前へ
次へ
全19ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
三好 十郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング