粉をお隣りから借りてね、わしが焼いたパン菓子だ。どうかまあ先生、めしあがってくだせえ。
ヴィン そりゃ、どうも……そう、そいじゃ、お祈りをしようか。ええと――(ポケットから聖書を出して、ローソクの前に立つが、それでは恰好がつかないので、近くの椅子を引き寄せて掛け、膝の上のパン包みの上に聖書を開くが、ゴロゴロするので、パンだけを取ってローソクのわきに置き、祈りに入るために壁の上のキリスト図に眼をやる)
老婆 ……(ヴィンセントのすることを眼で追って、これから祈祷がはじまることを知って椅子を立ち、ローソクに向って床の上に膝を突き、キリスト図を見て)なあシモンや、お前のために先生とおっ母あがお祈りをしるだよ。ようく聞いとくれ。……(胸のところで両手を合せて眼を閉じる)
ヴィン ……(しばらく眼を閉じていてから、低い声で)天にましますわれらの神よ。願わくば御名をあがめさせたまえ。御国をきたらせたまえ。御心の天に成る如く、地にも成らせたまえ。われらの日々のかてを今日も与えたまえ……(このあたりから、祈りの言葉が、非常にユックリになる)われらに罪を犯す者を、われらが、許すごとく、……(とぎれとぎれになる)われらの罪をも、ゆ――(プツンと切れる。しばらく、そのままジッとしていてから、再び努力して)われらに罪を犯す者をわれらが許すごとく、われらが罪を許したまえ。われらを試みに、あわせず、悪より、救い、いだし(再びとぎれとぎれになって来る)たまえ。国と、栄えとは、かぎり――(プツンと切れる。眼を開き、びっくりしたように四辺を見まわす。そこに、ローソクの光に照らされてひざまずき眼をとじて、ボシャボシャと口の中で祈っている老婆がいる。その姿をしばらく見ていたが、やがて苦しそうに膝の上の聖書を出まかせに開いて、いきなり読みはじめる)その時イエス答えて言いたもう「天地の主たる父よ、われ感謝す、これらのことを、かしこき人、さとき人に隠じて、幼な子に現わしたまえり」……(再び語調がノロノロとなり、そして、とぎれてしまう。やがてまた)父よ、然りかくの如きは汝の御心に、かなえるなり。……すべての働く者、重荷を負える者は、我れに来れ。……さらば、われ、汝らに安らぎを、あた――(プツンと切れる。そのまましばらくジッとしていたが、やがて、聖書を取って、ソッとパンのわきに置く。すべての力と抵抗を一度に失って、虚脱したような姿。眼は空虚にローソクの灯を見ている。……やがて、老婆に眼を移す。老婆は耳が聞えず、眼は閉じているため、ヴィンセントが祈りを続けていると思いこみ、口の中でボソボソと主の祈りを繰返して余念がない。……それをボンヤリ見守っているヴィンセント。右手が無意識に動いて、テーブルのパンへ行き、撫でる。しかしパンを撫でているとは彼自身は知らない。……次にその手が上着のポケットへ行く。それがポケットから出て膝の上に来た時には、ちびたコンテが握られている。そのコンテをボンヤリ見ている。やがて、パンの包まれていた紙の上に、ほとんど無意識にコンテが行き、線が一本引かれる。それを見ているヴィンセント。……ソッと老婆の方を見る。老婆はひざまずいて身じろぎもしない。ヴィンセントのコンテが紙の上で動く。やがて、ハッキリと老婆を見、紙のシワを伸ばして、老婆の姿のりんかくの線を二本三本五本引く。……その、うつけたような、しびれたような、そして次第に熱中の中に入りこんで行きかけた青白い顔)――(暗くなる)
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    2 ハアグの画室

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すぐに明るくなる。――
画室と言っても、居間も寝室も兼ねた粗末な裏町の一室で、そのガランとしたさまも、広さも、前のワスムの小屋に似ている。しかも、前に老婆のひざまずいていた場所にモデル女シィヌが裸体で低い台に腰かけているし、ヴィンセントが腰かけていた場所には、同じヴィンセントがイーゼルに立てかけた全紙の木炭紙に向ってシィヌを写生しているので、瞬間、前場の光景とダブる。
ただヴィンセントの絵を描く態度が、前のように弱々しい半ば無意識のものではなく、噛みつくように激しい集中的な描き方。木炭紙が破れるように強く速いタッチ。
シィヌは、前の所だけをチョット着物で蔽うて、ダラリとして掛けている。まだかなり美しいが、どこかくずれた顔や身体。長い葉巻を横ぐわえにしている。
……ヴィンセントの木炭のゴリゴリいう音。
女の葉巻の先から煙が、一本になってスーッと立ち昇っている。
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シィヌ ……(低く口の中でフンフンと鼻歌。「アヴィニョンの橋の上で」。やがて歌詞も歌う。葉巻をくわえているので歌詞はハッキリしない)
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Sur le pont d'Avignon,
L'on y passe, L'on y danse,
Sur le pont d'Avignon,
L'on y danse tous en rond.
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(歌に合せて片足をバタバタやりはじめる)
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ヴィン ……(それまで夢中になって描いていたのが、モデルの足が動くのでイライラしはじめ、しまいに我慢できなくなって)シィヌ! おいシィヌ!(シィヌは耳に入れないで歌いつづける)クリスチイネ! 頼むから、歌うのはやめてくれ。
シィヌ だってえ、――退屈だもん。
ヴィン 今、大事な所なんだ。
シィヌ 歌ぐらい歌ったって、いいじゃないか。声まで描くわけじゃないだろうに。
ヴィン そりゃそうだけど――なんでもいいから、じっとしていてくれ。
シィヌ あたしもこれまで、絵かきさんのモデルもずいぶんやって来たけど、あんたのように気むずかしいことを言う人は、まあなかったわね。ビタースは飲むなって言うし。
ヴィン それはまた別の――いや、だのに、お前はヂンを飲むから――
シィヌ ピーテルセンの先生がビタースがない時にはヂンだって良いって言ったんだもの、少しなら。薬なのよ私には。あたいは胃腸が弱いから――
ヴィン だから、ビタースなら良いけど――
シィヌ じゃ、お金ちょうだいよ。ビタースは、ヂンの倍も高いんですからね。
ヴィン 今一フランもないことはお前だって知っているじゃないか。あと二、三日すればテオが送ってくれるから、そしたら――
シィヌ 一にもテオ、二にもテオだ。飽き飽きしちゃった。なんでもいいから、テオさんもあんたの弟なんだから、それにお金持なんだから、毎月の金を一度に五十フランずつ三度に送るなんてケチケチしてないで、一度に百五十フラン送ってくれたらどうなの?
ヴィン 弟は精一杯のことをしている。グービル商会につとめて貰っている月給は三百五十フランぐらいなもんだ。その半分近くを僕に送ってくれているんだよ。そんなふうに言うもんじゃない。
シィヌ へん、そいで、じゃ、私たちの暮しはどうなるの? もうパンもないのよ。ヘルマンのミルクもないのよ。ここの室代も、もう三月も溜っているのよ。この上、私が入院するようなことにでもなると――
ヴィン コルの伯父が、良いスケッチが描けたら五枚でも十枚でも送って見ろと言って来てる。テルステーグさんも水彩画なら買ってやろうと言うんだ。良い絵さえ描けるようになりゃ、金はいつでも手に入るんだから――
シィヌ だのにあんたは、スケッチや水彩画なんぞサッパリ描こうともしないで、そんな汚ならしい真っ黒な絵ばかり描いているんだもの。
ヴィン 頼むから、クリスチイネ! 僕はサロン絵かきになろうとしているんじゃない。僕はホントの人間が描きたい。ホントの自然が描きたい。どんなに真っ黒で汚なくても、ここん所を卒業しないと駄目なんだよ。ね、頼むから、もう少し描かしてくれよ。じゃ、歌は歌ってもいいから、足を動かすのだけでも止めてくれ。
シィヌ いいわよ、じゃ。早くしてね、すこし寒くなって来ちゃった。
ヴィン すぐだ。(再び画面に向い、喰いつくような眼でシィヌと絵とを見くらべる)
シィヌ そのパンを少しおくれよ。おなかが空いちゃった。
ヴィン え、パン?
シィヌ そのさ、木炭を消すのさ。
ヴィン あ、これか……そう、じゃ……(と手元のパンのへりの所を割って、シィヌに投げてやる)ほら。
シィヌ なあんだ、へりの所ばかりじゃないのよ。中の軟かい所、おくれ。
ヴィン これは消すのに要るから、かんべんしてくれ。その代り僕はひとかけらだって食べはしないから。残ったら、みんなお前にあげる。
シィヌ しょうがないわねえ。(パンを噛み噛みポーズ。隣室で幼児が泣き出す)
ヴィン ああ、ヘルマンが、眼をさました。チョット行っておやりよ。
シィヌ なに、いいのよ。近頃、夜と昼をとっちがえてしまって、ゆんべもロクに寝てないから、うっちゃって置けば夕方まで寝てる。(幼児の泣声やむ)
ヴィン ……君は、自分の生んだ子に、どうしてそうじゃけんに出来るんだろうな?
シィヌ フフ、あんたはまた、自分とは何の縁もない私の連れ子を、どうしてそう可愛がれるの?
ヴィン そうさな、どうしてだか、自分にもわからないね。可愛いんだ。……そういうタチなんだろう。さてと……(絵に没入して行く、ガスガスガスと木炭の音。遠くで汽船のボウが鳴る)
シィヌ ああ、船が入ったな。
ヴィン うん?……(うわのそらで描いている)
シィヌ ハトバじゃ、いっぱい人が出てるよ、きっと。
ヴィン うん。……(描きながら半ば無意識に)いっぱい、人が、出て……人は、黒く見える。……肌の色は、ここん所がホンの少しカドミュームの混った白で……そいからオリーヴ、ここにオークル。そうさ、着物はブルウ・ブルッスであったり、赤やこげ茶もあるが……遠くから見ると黒く見える。ボリナーヂュでも黒かった。……黒の中にはすべての色が在る。
シィヌ あたしの黒のブラウズねえ、今のはもう痛んじゃってるから、入院するまでに新しいのを一枚こさえてくれない?
ヴィン うん。……こさえては、いけない。(返事ではない)見える通りに、描くんだ。……天使を見たこともないのに、天使を描けるものか。……(夢中で描き進む)
シィヌ (そういうことには馴れているので、勝手にしゃべる)だって、あたし、今度のお産では、もしかすると死ぬような気がするの。さんざん無理をした身体ですもん。病院の先生も、今度はちょっとむずかしいかも知れないって。
ヴィン え、死ぬ?(ヒョイと呼びさまされて)誰が――?
シィヌ ですからさ、ブラウズだけでも新しくなにしたいのよ。せめて死ぬ時ぐらい身ぎれいにしていたいじゃないの?
ヴィン いや、そんな君、そんな、シィヌ――どうしてそんなこと考えるんだ?(シイヌの所へ行き、肩をつかむ)――僕と言うものが居る。たとえ、どんなことがあっても――
シィヌ だってさ、あたしなんぞ、いっそ、その方が良いかも知れないんだ。小さい時から、腹一杯食べたこともない、大きくなると皿洗いや洗濯で骨がメリメリ言うほど働きづめ、そいからモデルになったり、ルノウの小母さんに引きまわしてもらったりしている内に五人も子供が生れちゃってさ。それも一人一人父親が誰だか、わかりもしない。……(自分で自分の話に悲しくなって涙を流しながら)せめて、今度の子が、あんたの子だったら、私、よかったと思うけど。
ヴィン いいよ、いいよ、そんなこと、気にしないで良い。生れて来たら、僕は自分のホントの子として育てて行くよ。心配しないでいい、大丈夫だ、ね、シィヌ! (抱きしめて、頬に激しくキスする)僕は君が好きなんだ!
シィヌ ううん。(おとなしく、されるままになりながら)ちがう。あんたはホントは私が好きじゃないのよ。あんたは、やっぱり、その、よそへお嫁に行っちまったケイさんとか言うイトコの人に惚れてんだわ。
ヴィン ケイのことは言わないでくれ。
シィヌ そらごらんなさい。そうなのよ。
ヴィン そんなことはないといったら。その証拠にこうして君と一緒になって暮
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