て2字下げ]
老婆 ……(最初にヴィンセントを見つけて)先生、帰ってござった。
ヴェルネ ああ、お帰んなさい。御苦労さまで……(立って行って迎え入れる。デニスも立つが、これは何も言わない。ヨングは腰かけたまま全く無表情な眼をヴィンセントの姿に注ぐ)
ヴィン ……(ゴトリ、ゴトリと入って来る)
ヴェルネ こちらは、あの――(と身ぶりでヨングを指して)先程から、待ってござる――
ヨング ヴァン・ゴッホ君、わたしです。
ヴィン ……(言われてフッと我に返り、急にキョトキョト周囲を見まわす。それから改めてヨングを見て、黙って、ていねいに目礼する。ヨング軽くそれに答える)
老婆 あのな先生、こねえだお願いして置きやした、シモンの御祈祷を、今日あげていただこうと思ってね、こうして参りましたよ。どうぞまあ――
ヴィン ……(そのすこしトンキョウな調子の声で、そちらを振り向いた拍子に、身体の衰弱のため、フラフラと倒れかかる)
ヴェルネ どうしやした?(ヴィンセントの肩を支え、椅子にかけさせようとする。ヴィンセントは、もう一度ヨングに頭を下げてから、椅子にかけ、そのまま言葉を忘れてしまったように、グッタリとなって自分の足元を見ている……)
ヨング ……(しばらく黙っていてから)それで、どうしました、ヴァン・ゴッホ君? その、支配人との話しは――?
ヴィン ……(顔をあげてヨングを見るが、すぐに、喰いつくような鋭い目をして自分を見つめているデニスの方に視線を引かれ、次にヴェルネを見上げて、弱々しいしゃがれた声で)……駄目だった。……朝から今まで、なにしたが、……会社も苦しい。まるで余力がない。そう言う――バリンゲルさんは、悪い人ではない。会計の帳簿まで見せてくれた。……ボリナーヂュの出炭量は世界中で一番貧弱だと言う。だのに、それを売るのには、ほかと同じ値段で売らなくてはならん。だから、利益は非常に少なくて、株主への配当は僅か三パーセントだし、会社はいつでも破産の瀬戸ぎわに立っている。……坑夫の賃金を一サンチームでも上げれば、会社は確実につぶれる。そう言うんだ。嘘を言っているのではないことが私にわかる。……それでは、せめて労働時間を短くしてくれ、一日十三時間も入坑していたのでは、坑夫はみんな死んでしまう、と言うと……それは、事実上の賃金値上げと同じことになるから出来ない。……では、坑内の設備をもっとチャンとして、今度の爆発みたいなことの起きないようにしてくれと言うと、その金がない。それだけの利潤がないし、新株を売り出すことも出来ない。……では、せめて、爆発で生き埋めになった坑夫たちの死体発掘だけでもしてくれと私は言った。……そうです、私もなんとかして、そうしたいと思って重役や技師たちとも、さんざん相談して見たが、どうしても、それが出来ない。会社ではあの坑道は再開する意志がない。して見ても生産費だけの利益があがらない。しかも死体を発掘するには百人の坑夫で一カ月かかる。その費用は誰が出します? 会社にはそんな力はない。しかもそうして見ても、結局なんになる? 坑夫たちの死体を、あの墓場から、この墓場へ移すだけじゃないか?
デニス (低く、歯の間から)ちきしょう!
ヴィン ……バリンゲルさんも、悲しそうな、腹を立てた顔をして……言った。キリのない、絶望的な悪循環だ。わしは、もう何千回もこいつを回って来た。坑夫が悪いのでも、会社が悪いのでも、石炭が悪いのでもない。悪いのは出炭量が少な過ぎることだ。そんな炭坑からまで無理に石炭を掘らなきゃならんと言うことだ。そういう世の中であると言うことだ。しかたがない。……世の中をとがめて見ても、どうなりますか? すると、こんなみじめな有様については、神さまに責任があるんじゃないでしょうかね? わしが、カトリック教から、無神論者になってしまったのは、そのためです。神さまは、御自分でこんな状態を作り出して置いて、その中で人間が虫ケラのように死んで行くのを、見ておいでになるんだ――
ヨング 黙りたまい! 恐ろしいことを言う。もう黙りなさい、ゴッホ君! いいや、そんな恐ろしい涜神の言葉を吐くとは、仮りにもベルギイ福音伝道教会の宣教師ともあろう者が――
ヴィン ……(びっくりしてヨングを見ていたが、相手がなぜ怒り出したかを理解しないで)はい。……それで、そう言うわけで、坑夫たちがストライキをすぐにやめて、入坑して仕事を始めてくれなければ、会社では仕方がないから炭坑は永久に閉鎖する。それで、もう既に、レール、ボイラア、炭車、昇降機なぞ、機材の全部を南フランスの坑山会社に売り渡す交渉まで始めている。
ヴェルネ え? そ、そりゃ、ホントかね先生?
ヴィン ホントだ。
デニス 人殺しめ! 畜生っ! だから俺あ言ったんだ――
ヴェルネ まあ待て! そうだとすると、こいつは大事だ。こうっ、と。……(考え込む)
ヴィン ……そんなわけで、あんた方のために、なんとかしてと思って、一所懸命になったが――私には、なんにも出来なかった。……もう、なんにも出来ない。私には力がない……
デニス だから――だから俺あ言ったんだ! 坊主に何が出来る! それを、偉らそうにシャシャリ出やあがって、この――(拳をかためてヴィンセントに詰め寄る)
ヴィン ……どうしてくれてもよい。……私を許してくれ。(ガクリと頭を垂れる。その打ちくだかれた姿を睨みすえているデニス)
ヨング よろしい! もうよろしい! これだけ聞けば、もうたくさんだ! いや、どうも、私は、まさか、これほどだとは思っていなかった。いや、いや、もうよろしい! 実に、なんともかとも、驚き入りました。わが福音教会の宣教師が、毎月そのために月給を貰って神聖な事業に従事している宣教師が、人々の前で神さまを誹謗している! 無神論者になったことを公言していおる! もうたくさんです! ことは既に余りがある!
ヴェルネ 牧師さん、それは、あの――こちらの先生がおっしゃったことは、会社の支配人のバリンゲルさんの話を、この――
ヨング わかっている! あなた黙っていていただきたい! 私はゴッホ君に言っておる。どうかな、君の御意見を伺いたい? 神はないと君も思っているんだな? そうだな? そうでなければ先程のようなことが言える道理がない! え? なぜ返事をなさらぬ――
ヴィン そ、そ……(問いつめられて混乱し、苦しそうに喘いで)いえ、私はそんな、そんなことは思って、おりません。神さまは――バリンゲルさんの――
ヨング ハッキリ言いたまい。そうだな? え?
ヴィン (にわとりが、しめ殺される時のように、もがきながら)バリンゲルさんに、そう、言われると、私には、なんとも言えなかったのです。私には力がない。ボリナーヂュには神さまは、いらっしゃらぬ。私には見えない。そう言われると――
ヨング (ほとんど勝ち誇って)それ見たまい! これで全部かたづいた。よろしい、よろしい、もうよろしい。(急に落ちついた語調になって)あなたも御記憶の通り、これまで教会では、あなたに対して三度も四度も警告を発しておる。二カ月前にはビールテルセン牧師もやって来られてあんたに注意をなさった筈。それをことごとく聞き入れないで、あなたは、このようにけがらわしい所に説教所を設け、教会の威厳を損なうような不潔な服装をして、自分自らがキリストの再来であると言うようなことを口走り、教会から送る月給は、全部、犬のような労働者に与えて浪費してだな、キチガイじみたことばかりしておる。しかも、今度は坑夫を煽動して炭坑ストライキを起し、その先頭に立って騒いでいられる。
ヴェルネ そりゃ、違います! そんな、いいえ、ここの先生は、ただわしらのことを見るに見かねて――
ヨング 黙んなさい。あなたに言っているのではない。それで、こちらの炭坑会社からブリュッセルへ手紙が来て、教会から、あなたに対し厳重警告を与えてくれとあったので、私がこうして出向いて来たのだ。私の考えでは、実状を調査した上で、あなたによく忠告してだな、実は、なんとかしてあなたのために良かれと思って来て見ると、いやどうも、このありさまだ! すべてのことは前よりもひどくなっている。しかもそうして明瞭に、神さまを罵っている! これでは、もう、なんとしても弁護の余地はない。あなたとしても、そのように考えていられる神や福音のために伝道の仕事をなさる気は、もはや、おありでなかろうと思う。(椅子から立つ)私はブリュッセルに帰って直ちに、あなたを解職するような手続きを取ります。さようなら、それでは――(戸口の方へ歩き出す)
デニス やい、やい、やい! くそ坊主め、よくも言ったな! 犬のような労働者だと! おおよ、犬だ俺たちあ! おめえたちから、犬にされてしまった坑夫だ! 犬には教会は要らねえんだ。神も坊主も要らねえんだ。くそでも喰え! 俺たちにや、人間が居りゃ、たくさんだ。真人間が居てくれりゃ、たくさんだぞ。ここの先生は、俺たちのために、食うものも食わねえで、何もかも俺たちに投げ出してくれてる、真人間だぞ! 見ろ、この人のザマを! こんなザマになって俺たちに良くしてくれてんだぞ! お前みてえに食い太ったインチキ牧師なんかに較べりゃ、先生はキリストだ。へいつくばって、足でも舐めろ、畜生め!
ヴェルネ デニス! おい、デニス!
ヨング (冷笑して)よろしい。それでは、あんた方は、あんた方のキリストに救ってもらうがよい。(ユックリと戸口から出て行く)
デニス くそ!(ヴィンセントに)あんたも、あんまりおとなし過ぎるじゃないか、先生? あんなインチキ野郎、もうすこし何とか言ってやりゃいいのに。(ゴッホに対する自分の態度が全く矛盾していることに気づかない)
ヴェルネ さて、そうすると、会社では、そこまでハッキリして来ているとすると、もうこれ、ストライキをやめて、すぐに入坑するほかに方法は無いようだな。
デニス とっつあん、そいつは駄目だ。それが出来るくらいならお前、こんな所まで(言っている内に、筋道の通らぬことを言っていることに気づいて、プツンと言葉を切る)
ヴェルネ ふむ。……ええと……(考えている。目が自然にヴィンセントを見ている。デニスも無言でヴィンセントを見つめる。老婆も目をやっている。それらの視線の中でヴィンセントはガクリと、うつ向いている)
ヴェルネ しかたがない、五百人からの人間が死んでしまうわけにも行かねえ。デニス、行こう。事務所へ行って、みんなに俺から話す。……(ゴッホに)先生、あんたのことは、わしら、忘れねえ。皆になりかわって――ありがとうがした。でも、こうなって、まあ仕方ねえから――(心からの頭を下げてから、戸口から出て行く)
デニス ……(これも続いて行きかけ、ゴッホに向って何か言おうとして、口を開いて言いかけるが、遂に一言も言えず、片手で頭髪を掴み、前こごみにションボリして出て行く)
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あとには坐りつくしているゴッホと、そのゴッホを見ている老婆。……夕陽は既に落ち、急にトップリと暗くなって、二人の姿がガラス窓の薄明りに向って、にじんだような墨色のシルエットになって動かない。……遠くで犬が吠えている。……やがて老婆が、マッチをすって、ローソクに火をつけ、それを壁のわきの粗末な小テーブルの端に立てる。ゆっくりと三本のローソクをともし終ると、室内が明るくなり、テーブルの上方の壁にはられた古い銅板のキリスト図が見える。
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老婆 お願い申しますよ先生。
ヴィン う?
老婆 シモンのためにお祈りをあげてくださいまし。
ヴィン シモン?……(そのへんをキョトキョト見まわしているうちに不意に思い出して)……ああ、そうだった。(立ってゴトゴトとテーブルの方へ行く)
老婆 お金は一文もねえから、なんにも、へえ、お供えは出来ねえ。ホンの、まあ、わしの心持だけだ、これを、へえ、(と紙包みをガサコソと開けて、差し出す)たった一つだけんど、
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