}ラルメはそいつをかぐまいと思って、鼻をつまみ過ぎたためにフンづまりになった男だ。君も、いいかげんに福音だとか道徳なんぞ、いじくりまわしていると、気違いになるかフンづまりになるのが落ちだぞ。どっちみち、こんな腐った匂いから逃げ出す方法は、一切合切かなぐり捨てて、まっ裸になって海に飛びこむ以外にないんだからね。
ヴィン そりゃ、君の言う意味はわかる。わかるけれど、それも結局は一時の逃避だと思うんだ。今は、そりゃ、マチニックやタヒチへ行けば美しい楽園が在るかもしれない。しかし、そこがいつまで楽園であり得るだろう? え?(再びゴーガンのついだアブサンをあおる。そして自分もゴーガンのコップについでやる)しょせんは人間が住んでいる所だ。今のところ原始的で、文明から毒されていないから良いが、やがて、そこも開けて来る。人間は自然に文明の方へ進む。原始の方へ後帰りすることは出来ない。すると早かれおそかれタヒチもパリも変りはないことになる。だから問題は本当は片づいたんじゃない。ただ一時、君は逃げ出すだけだ。(もう酔いが廻って、次第次第に早口に昂奮して来ている)
ゴー (この方は酒に強く、冷静さを失わない)そうだよ、たしかに逃げ出すだけだ。後のことを知らん。ほかの奴らのことは知らん。自分がもうたまらないから逃げ出すのだ。卑怯だの、独善だのと笑わば笑え、問題が片づかなくたって俺の知ったことじゃない。俺が確実に持っているのは、この自分だけだからな。しかも俺がこうして生きているのは一遍こっきりなんだからね。俺は来世を信じない。だから、今、現在、自分を大事にするんだ。臭いのをがまんしているのは、御免なんだ。それだけの話だよ。悪いかね、それで?
ヴィン 良い悪いではなくて、俺の言うのは、こうしてやって行きながら、この腐敗や堕落の中で苦しみながらだな、そのなかに、俺たちは救われる道を見つけ出せないだろうか、と言うことなんだ。また、結局、このなかにしか、救われる道は見出せないんじゃないだろうか、と思うんだ。それに、君は笑うかも知れないが、今現にこうしてゴチャゴチャした不合理な不愉快な世の中に生きていても、正直のところ、俺たちはまだ素朴なやさしい心をお互い同士感ずることが出来る。真実を与え合うことは出来る。愛はあるのだ。それが在るならば、何がホントに根本的に腐敗しているのかね? だから、だからさ――だから、例えば――自分のことを言ってなんだけど、僕がね、ベルギイの炭坑で宣教師をしていた時、炭坑が爆発したことがある。死人がたくさん出た。一人の男が死にかかっていた。会社では、どうせどんな手当をしても死ぬものだから打っちゃって置けと言うんだ。僕はその男を見ていて、もしキリストだったら、どうするだろうと考えた。そしてね、僕はその男を自分の室にかついで来て、疵を洗ってやって、つきっきりで看病した。毎日湯に入れてやった。その男が恢復するにつれて、僕は餓えてきた。一カ月して男は助かって、僕の方は病人みたいになった。そしてその男は今ではスッカリ丈夫になって、毎日曜日僕のために神に祈っている。……いや自慢するためにこんな話をしてるんじゃないよ。それに僕はとうの昔に神やキリストを見失っている人間だからね。ただ、そういうこともあると言っているんだ。その男が僕のために、死ぬまで祈ってくれていると言う点なんだ。神だか何だか俺は知らない。しかし、もしそれを神だと言えば言えるんじゃないだろうか? すれば、人間は逃げないで、このままでやって行っても救われるメドは有るんじゃないだろうか?
ゴー ……(先程から、自分の全く持っていないものを持っている人間に対する驚異と感嘆のために、アブサンを飲むのをやめて、ほとんど厳粛な顔になってヴィンセントを見つめていたが)まったく、君と言う男は、おかしな男だ! どうも、うむ。聖なる魂か。
ヴィン 聖なる――? またからかうのかね?
ゴー からかっているように見えるかね? フフ、まったく君という男はおかしな人間だなあ。どうだい、明日僕に君の肖像を描かしてくれないか?
ヴィン 僕の? ああ、いいとも。そいでね、僕がここにこの家を借りて、君を呼んでこうしてさ、そして、もっと貧乏で世間から認められない画家たちをたくさん呼び集めて、仲よく共同生活をしながら製作して行こうと思ったのも、結局それなんだよ。俺はやっぱり人間を信ずる。逃げ出そうとは思わない。貧しい心とあたたかい胸を持った人々を捨てない。どんなに苦しくとも、俺はここで、やる!(ドサン、ドサンとテーブルを叩く)
ゴー おっと、そんな、なぐりつけるのは、よせ。酒がこぼれる。(コップを取って飲む。以下、話の間に、ついでは飲んで、二人の酔いは深くなる。ヴィンセントよりもゴーガンの方がずっと酒に強いだけでなく、酔い方も違う。ヴィンセントの方はカーッと発揚してイライラと白熱して来る酒で、ゴーガンのはドロンと底に沈んで行って、どこか少し凄味のある酒だ)
ヴィン だから俺は、君を画家としてはホントに尊敬しているけど、でも、奥さんや子供さんまで有るチャンとした家庭を、まるで古靴を捨てるようにして捨ててしまって顧みない君の気持が、俺にはわからない。
ゴー ハッハ、そいつは俺にもわからないさ。ただ、ある朝ヒョッと、人間はいつまでも生きてるもんじゃないと思った。俺も、だから、自分のホントにしたいと思うことをしなくちゃならんと思ったんだ。それまで十五年間俺は証券屋をやって、妻子を養って来た。今後もなんとか困らないだけの金は稼いでやった。だから後は、自分たちで何とかするがいい。これから先の俺の月日は俺のものだ。自分だけのために使うんだ。だから絵を描くんだ。あとはどうでも良い。俺の知ったことじゃない。そう思って、そうしたまでさ。ハハ!
ヴィン そうら、そう言って君は笑う! そんな風にだね。自分の親しい者をギセイにする資格が人間にあるのかね! しかも君は笑っている! 君の奥さんと子供さんは君から捨てられて、今ごろは泣いているかも知れないのに、君は笑うんだ! まるで君は悪魔だ。
ゴー アッハハ、俺が悪魔なら、君はダニだよ。だってそう言う君自身はどうだい? 弟のテオドールを君はギセイにしてないのか? もう五年もテオ君は自分の月給の中から毎月百五十フランずつ君に送って来ているが、そのためにテオ君は結婚しようにも、思うように行かないで、行きなやんでいるそうじゃないか?
ヴィン そ、そ、それを! そ、そ――(一度に真青になって立ち上っている)き、君は――テオは、テオとは、そう言う約束なんだ! 俺の描き上げた絵はみんなテオに提供する、だからそれはテオの財産であって、それが売れるようになればテオがもうけて――だから、今兄さんに金を出してあげるのは、言わば共同出資の前払いだから、兄さんは安心して、ひけめを感じないで絵を描くように言って――(昂奮と酔いのために絶句してしまう)
ゴー そりゃ、君に気づまりな思いをさせないために、そう言うのさ。人の善い男だからね、あれは。しかし、実はどいだけ君のことを重荷に思っているか知れんよ。パリで僕に何度も愚痴をこぼしたことがある。時々兄のことでは耐えきれぬことがありますと言ってね。
ヴィン そ、そ、それはテオが俺のことを愛して、俺のためを思ってそう言うんだ。それが君にはわからんのだ。君はそれを反対の意味にしか取れない。そう言う冷血漢だ君は!
ゴー 現に、君の絵が売れるようになればと言うが、一枚でも売れたことがあるかね? ない。今後も売れる筈はない。つまりテオはボロクズを背負いこんでいるだけだ。それをテオは知ってるよ。知ってるけど、頭の少しおかしい兄を落ちつかせるための気休めに共同出資だなんて言っているのさ。そんなことをちっとも知らないで、ただいい気になっているのが君だ。いや、ホントは君はそいつを知っている。知っても、今のようにしているのが自分が得をするから、頬っかむりをしているだけだ。実は腹の底では気がとがめているんだ。でなければ、僕からこんなこといわれてそんなに怒るわけはない。いや、俺がこんなことを言うのは、だからけしからんと君を非難してるんじゃないぜ。ただ自分のことはタナにあげて人のことばかり君が言うからさ。人間は結局エゴイストだ。自分を中心に考える以外にない。人をギセイにするのは、やむを得ないさ。弱虫は人をギセイにしていることを認めるだけの勇気がないもんだから、愛だの涙だのと持って来て自分でごまかそうとして――
ヴィン だ、だ、黙れっ!(テーブルの上の、あらかた空っぽになったアブサンの瓶を掴んでテーブルにガシャンと叩きつける。瓶は割れて、そのへんに飛び散る)黙らないと――!
ゴー ……(ヴィンセントの調子から殺気のようなものを感じて、いっぺんに黙ってしまう)

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間――いつの間にか、室内はすっかり暗くなっている。まだ少し明るい窓の外の広場にガス燈がポツリポツリともっている。
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ヴィンセントの声 (背後から。死んだように静かな室内に向って、はじめはほとんど聞えないくらいに低くつぶやくように)いやいや、テオが、あのテオがそんなふうに思っている筈がない。テオは俺を愛している! 俺の絵を良い絵だと思ってくれている! 結婚のじゃまになるなぞと俺のことを思っている筈はない! そんな筈はない! それならば今まで、何かそんな所を俺に示している筈だ。愚痴をこぼしたと言うのは、テオの弱い性質のために、つい、そう言ったのだ。それもキット俺のために良かれと思って、俺のことをゴーガンに頼むために、つい、そう言ったのだ。それをこの悪魔は、こんなふうに言って、俺に毒気を吹き込むんだ!、テオと俺との仲を裂こうとしてるんだ。そうだ、こ奴はマムシだ! ……しかし、もしかすると、テオは、もしかすると俺のことをそう思っているのか? 重荷だと思っているのか? 頭の少し変な兄が、下手の横好きで絵を描いてる、よせばいいのに、よせばいいのに、でもソッとして描かして置かないと、いっそう厄介なことになりかねないから、気休めを言って仕送りをして描かして置く。そう思っているのか? そう、ちっとでも思っているとなると、俺は俺は俺は――
ヴィン (暗い中に立ったままで)俺は、どうしたらいいんだ?

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……ゴーガンがノッソリ立って、ゆっくり歩いて、マッチをすり最初天井からさがっているガス燈に、次に隅の小テーブルの上にのっている石油ランプに火をともす。落ちついているようでも、さすがにマッチを持った手が少しふるえている。――室内が明るくなる、石のように突っ立ったままヴィンセントがまだ握っている割れた瓶の首の、割れ目のガラスが宝石のようにキラキラ光る。
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ゴー ……(それをジロリと横眼で見ながら、元の椅子へ行ってかける)
ヴィン ……(その椅子のきしむ音で、ゴーガンの方へ眼をやり、二人いっとき見つめ合っている。そのうち、手に持った瓶の首が眼に入り、ギクンとして、どうしてそんな物を自分が手に持っているかわからない様子で、それとゴーガンの顔を見くらべていたが、急に恐怖の色を浮べ、キョロキョロとあたりを見まわした末に、上手の洗面台の下に、瓶の首を押しこむ。そして元へ戻ろうとするが、また不安になって、再びそれを取り出し、階段下のカンバスの向う側にかくして、その上に何枚ものカンバスをのせる。そしてゴーガンの方をオズオズと見て)……あの、俺は、何か、したかね? 何か乱暴な事を君に、したんだろうか? 今の、この――
ゴー ………いいよ。別に何もしない。だけど、もう、しゃべるのは、よした方がいい。君は酔ってる。
ヴィン 何か、したんだろう? 悪かった。悪かった。……なんだか、先刻、テオがここへやって来たような気がしたんだ。そいでつい――
ゴー 来やしないよテオ君なんか。君は昂奮しているんだ。……俺もい
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