ネことない! だってこの間あの人言ってたわよ。ポールが行ってしまうと言ってる。ポールが行ってしまうと俺あ一人ぽっちで、どうしてやって行っていいかわからない、そうなると俺は悲しくて絵が描けなくなるかもわからない。俺はポールをホントに尊敬している。ホントに愛している。そりゃ、少し意地の悪い所はある、あるけどそんなことなぞ、どうでもいい。ポールをここに居させて置くためになら、俺あどんなことでもする。左の手一本ぐらいならローソクで焼いて見せてもいい!
ゴー ふむ。……(それを言っているのが、子供っぽい売笑婦であるだけに、かえって、強く打たれて、不意に黙ってしまい、眼を据えて「ヴィンセント像」を見ている)
ラシ (これは、ただ軽佻に)怖いくらい真剣な顔してそう言ってたわ。よくよくあんたに惚れてんだわ。あたい、少し妬けちゃったな。あんた、一体、あの人の何? 兄弟分? それとも絵の先生? 先生じゃないわね? だって生徒がポールなんて呼び捨てになんぞしないでしょ?
ゴー (苦しそうに、しかし強く)……友だちだ。……そう、一番仲の良い友だちだ。
ラシ ホント? ホントに? そいじゃ、あの人の言うこと聞いてあげなさいよ。寂しい人だわよ、フウ・ルウ! ね、そしたら、私、あんたにキッスしたげる! だから、そうしてあげて! ほら!(サッとゴーガンの膝に乗り、ゴーガンの頭を手にはさんで、口のわきにキッス)
ゴー ラシェル、お前は良い子だな。
ラシ だからね、そうしてよ!(もう一つ、別のがわにキッス)
ゴー フフ!
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そこへ音もなくドアが開いて、ヴィンセント。絵の道具をさげ、ルーランと一緒に一杯ひっかけて来たと見え、すこし元気に、何の気もなく入って来たのが、ゴーガンがラシェルを膝の上に抱いているのを見て、サッと顔の色が変り、棒立ちになる。
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ヴィン ……
ラシ あら、フウ・ルウ!
ヴィンセントの声 (観客の背後から、低い早口で)畜生! マルチニックの種牛め! この女まで俺から取り上げるのか? この女は俺の女だったんだ。アルルへ来て、絵を描きすぎて疲れてイライラしている俺を最初に慰め落ちつかしてくれたのはこの女だったんだ。この女は俺にとっては、自分の欲情の相手以上の存在だったんだ。俺の焼けてくるめく頭を、この女の乳の上にのせると、熱が引いて静かになりウトウト眠れた。それを、この畜生は、ただ一時の欲情だけで俺から取り上げるのか? こいつは俺の作品にいちいちケチをつけては、絵を描いて行く落ちついた気分を取り上げた。しょっちゅう議論を吹きかけては、俺の頭をメチャメチャに引っかきまわした。あんまり酒を飲むな、タバコを吸うななどと、したり顔して忠告するようなフリをして俺の生活から空気を取り上げた。まだ取り上げたりないのか?
ラシ (立って来て、ヴィンセントの首に手をかけて)どうしたのフウ・ルウ? また、絵を描きに行ってたの? 冬の間ぐらい、ちっと休みなさいよ。ごらんなさい、こんなに痩せちゃった。今日もまた何にも食べていないんでしょ? 私三角パンを買って来たわよ。(テーブルの所へ駆けもどってパンを掴んでゴッホの方へ行き、握らせる)お食べなさいよ。
ヴィン ……。
ヴィンセントの声 (ますます早口で)嘘をつけ、淫売め! 今お前はこの男と何をしていたんだ? 俺をナメて馬鹿にしても、その手には乗らないぞ!
ラシ どうしたの、黙りこくって? ね、フウ・ルウ、今あたしポールさんに頼んでたのよ、アルルからどっかへ行っちまうの、フウ・ルウのために、よしてくれって、そしたら、行かないと言うのよ。そいじゃ、行かないで、あんたとズッと一緒にここに居るんだって。(ゴーガンに)ねえ、あんた。そうだわね、そうでしょ?
ゴー フフ。……(ただ笑っている)
ヴィンセントの声 さては、この女が手に入ったものだから、また当分この女に飽きるまでここに居ようと言うのか? ゴロつきの浮浪人め!
ヴィン ……。
ラシ だからさ、安心して、このパンお食べよ、ね!
ヴィンセントの声 いや、いや、いや、待て待て。……(同時に舞台のゴッホは無表情のままユックリ上手の階段の下へ行き、さげていた絵の道具を置く)いけない! 気をつけろ! 俺は、ゴーガンに昨夜のことをあやまって、仲直りをするつもりで帰って来たんじゃないのか? ルーランと一緒に一杯飲みながらも、俺はそのことをルーランに話して、ルーランに約束して来たんじゃないのか? 落ちつけヴィンセント。もっと素直な気持になれ。ゴーガンは、今の俺に取っては唯一人の友だちだ。そして俺よりもすぐれた天才だ。ラシェルは何だ? たかが一人の淫売だ。ラシェルをゴーガンが取りたければ取ったっていいじゃないか。それくらいのことで俺はポールを失ってはならない。失ってはならない。素直に、素直に、素直になって、俺はポールに詑びを言わなければならない。ければならない。
ヴィン (低くつぶやく)ければならない。ければならない。うん。
ラシ 何をブツブツ言ってるのよ。お食べよパンを。
ゴー どうした、うまく描けたかね? ……風がひどかっただろう?
ヴィン う? ああ、いや。
ラシ ホホ、ぼんやりしちゃ、いやだわよ。ね、フウ・ルウ、今夜お店へ来ない? いっしょにアブサン飲んで踊りましょうよ。そしたら元気が出るわよ。ううん、お金がなきゃ、なくてもいいわ。その代り、持って来て、ね、これ?(とヴィンセントの左の耳を引っぱる)ホホ、よくって? 来るわねフウ・ルウ?(ヴィンセント無言でうなずく)
ヴィンセントの声 この女は何を言っているんだ? さっきはゴーガンと抱き合っていて、こんどは、こんなことを言っている。こんな無邪気な顔をして、こんな明るい目をして、パンを食えと言って、金がなければ耳を持って来いと言って、耳? 耳、耳? 俺にはわけがわからない。どう言うんだ? どう考えたらいいんだ? わけがわからない、わからなくなった、わ、わ、わ――(言葉の間から裏のレストランからのファランドールの笛が曲の途中から鳴りはじめる)
ラシ あら、また、裏で笛を吹きはじめた。(踊りの調子に靴をカタカタ鳴らして)じゃ、あたい帰る。あんまりおそくなると、おかみさんにしかられるから。きっと来てよ今夜。いいわねフウ・ルウ。ポールさんも、どうぞね。さあさ、これチャンと食べて。(と、ゴッホの手のパンをちぎってその口にねじ込んでから、入口の方へ)さいならあ! ランラ、ラー、ラー、(ファランドールに合せて三つ四つ踊りの身ぶりをして靴を鳴らしてから、戸を押してサッと出て行く)
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取り残されたゴーガンとヴィンセント。ヴィンセントは立ったままで、バラバラの表情で、無意識にパンを噛んでいる。ゴーガンは、こっちからそれをジッと見守っている。……鳴りつづけるファランドール。
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ヴィン ……(顔が不意にゆがみ、両頬に涙が流れて来ている。自分ではそれを知らない。ファランドールに聞き入っているだけ。ヒョイと右手の三角パンを見る。そのパンを自分が噛んでいることに気がつく。ピクンとしてゴーガンを見、それからラシェルの立ち去った戸口に目をやる。それから再びパンを見る。見ているうちに急に声をあげて泣き出す。ファランドールやむ。ヴィンセントのオーオーと犬のほえるような泣声だけが残る)
ゴー (びっくりして見ていたが)どうしたんだ?
ヴィン ……(泣き出した時と同様に出しぬけに泣きやんで、ボンヤリ立っている)
ゴー (立って行き)どうしたんだよヴィンセント?(ゴッホの肩に腕をまわして、テーブルの方へ連れて来ながら)まあ、掛けたらいい。急に泣いたりして?(ゴッホを椅子にかけさせ、自分もかける)
ヴィン (いきなり、ゴーガンの手を握って)ポール、俺を許してくれ! 俺が悪かった! どうか許してくれ!(床にひざまずいてしまう)俺は、たしかにどうかしているんだ! たしかに、どうかしていた!(床に額をすりつける)
ゴー (びっくりして)どうしたんだよ全体? そんな――ヴィンセント?
ヴィン 俺にはそんな気はちっともなかったんだ、そんな気はちっともないのに俺の手がひとりでに動いちまった。俺はただ、ミレエが偉大な画家だってことを君にわかってもらいたいと思って話していただけなんだ。それがツイ君から何か言われて、あんな議論になってカッとなってしまった。僕の悪い癖だ。すぐに後先もわからないようになってしまう。君は冷静だ。僕はまるで子供みたいな人間だ。僕は時々自分でも自分が自由にならなくなってしまう。僕は君にアブサンを投げつける気なんか、その瞬間まで、まるでなかった。
ゴー ゆうべのカッフェでのことかね? なに、僕はなんとも思ってやしない。いいよ、いいよ。ハハ、まあ起てよ。
ヴィン いいや、許すと言ってくれ。でなければ僕は起たない。ポール。どうか許してやると言ってくれ。
ゴー (ゴッホのわきに手を入れて立たせながら)いいじゃないか、そんなこと。大したことじゃない。じゃまあ、許すよ。ハハ。
ヴィン (やっと立って)ありがとう。僕はもう今後気をつけて、あんなことは絶対にしない。約束する。
ゴー (ゴッホの両肩を抱いて)ヴィンセント、君って男は、良い奴だなあ。
ヴィン (これも、しっかりと相手を抱いて)ありがとう、ありがとう。
ゴー また泣くのか?(ポケットからハンカチを出して、ヴィンセントに握らせながら)拭けよ、みっともない。そのツラじゃフウ・ルウと言われても不平は言えないよ、ハハ。第一、僕はそんなセンチメンタルなのは、好きでないね。よしよし、仲直りの祝いに、ゆんべ俺の買って来たアブサンを開けよう。(言いながら、下手の自分の寝室に行き、ベッドの下からアブサンの大瓶を出す)
ヴィン (ハンカチで顔を拭き、機嫌よく笑いながら)まったく、俺はフウ・ルウだ。ラシェルがね――いや、ラシェルも、君が取りたいと思ったら取っていいよ。あれは良い娘だ。アルルの太陽の光の中からヒョイと生れて来たような女だ。もともと、僕があの女の所に通うようになったのが、君が来る前、僕はここにたった一人ぼっちで居て、とても孤独で寂しかったからなんだよ。寂しくってやりきれなかったためだ。(ゴーガンはその間にノシノシと歩いて上手の洗面台へ行き、コップを二つ持って来てテーブルの上に置き、瓶を開けてアブサンを注いでコップの一つをヴィンセントに持たせる)ありがとう。(グッと一気に飲む。ゴーガンも飲む)そりゃ俺も唯の人間だ。女が欲しい。女が居なければ俺は凍えてしまう。しかし、それにも、もう馴れた。そう言う意味では俺はもう諦めている。女には俺は縁がない。俺の恋人は俺の絵だ。それに、こうして君と一緒に暮しているんだから俺はもう寂しくはない。だから、ラシェルは君にあげるよ。
ゴー (グイグイとアブサンを飲みながら)ハハ、せっかくだが、いらんねえ、あんな小娘なぞ。そんなことより、問題はそんなふうな君の考え方について廻る、なんと言うか、大げさな禁欲主義的な、福音書風な行き方だなあ。女なんて、君が考えているようなもんじゃないよ。欲しくなりゃ、好きなように取ったらいいんだ。女もすべて取られることを望んでいる。アダムとイヴの道だ。女も動物だ。男が動物であるようにね。それ以上、めんどうなことを考えて自分をしばりつけること自体が既にもう一種の堕落だよ。男と女が動物であった時は、堕落なんぞ起きはしなかった。神を創り出したり、道徳を考え出した時から堕落したんだな。それと、機械だ。機械は今にわれわれ全部を奴隷に引きずりおろしてしまうよ。神と道徳と機械――これがわれわれヨーロッパの文明だ。だから文明は堕落のシノニムだね。今に完全に腐って亡びるよ。特にこのフランスなんて言う所は、もう腐り果ててズルズル溶けかけている。ボードレールはその腐った匂いをかぎ過ぎて、頭が変になった男だし、
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