、なすった、こんな所で眠ったりして? おやおや、イーゼルも何も、ひっくり返して!(言いながら助け起す。実際の「製作へ」の中に描かれているのと同じナッパ服にムギワラ帽のヴィンセント。気を失って倒れていたもの)
ヴィン うん? ……(ボーッとして、自分がどこに居るかわからない様子)
ルー どうしました? 気分でも悪いかね?
ヴィン ああルーランさんか? ええと――
ルー もう間もなく日が暮れますよ。さあさあ、いっしょに帰りましょう。おやおや、せっかくの絵があなた、砂だらけだ。(くちこごとを言いながら、絵の道具をまとめてくれる)
ヴィン すまない。つい、寝込んでしまって――(やっと我れに返り、頭をブルブル振り、痛むと見えて額に手を持って行く)
ヴィンセントの声 (観客の背後から)眠っていたのではない。気を失って倒れていたのだ。……俺はこの風景をセッセと描いていた。ゆうべのアブサンがたたって頭が少し重かったには重かった。しかし、俺はいつもカンバスに向うと、すべてを忘れてしまう。今日も描き進むうちに頭の痛いことは忘れてしまっていた。絵はうまく行きそうな気がした。そのうちに、ヒョッと風が吹いて来た。ああまた、ミストラルが来るなと思った。カンバスがゴトゴトした。そのため木立の色を塗りそこなった。それでパレット・ナイフを取ってけずり取ろうとして、ナイフの刀を見た瞬間に、ゴーガンの顔がナイフの向うからヒョイと覗いた。ゆうべ俺からアブサンのコップを投げつけられて、ジロリとこっちを見た顔だ。眼が軽蔑で光っている。その青い眼だ。……それを見ているうちに、俺はクラクラとしてあたりがすべて白くなり、そして、どこに居るかわからなくなった。遠くで、どこかの鐘が鳴りわたっていた。キリン、カン、キリン、カン、キリン、カン、遠い所で……
ルー さ、これでまとまった。絵の具箱は私が持ってあげます。行きましょう。
ヴィン ありがとう。いいんだ、僕が持つ。(立つが、すこしヨロヨロする)
ルー 大丈夫ですか?(ヴィンセントの片わきを支える)
ヴィン 大丈夫。(七つ道具をさげて立った姿は「製作へ」の中の自画像と全く同じである)
ルー なにしろ、あなたはあんまり詰めて仕事をなさり過ぎる。どうです、一つ、くたびれ直しにジヌーのカッフェで一杯ひっかけて行きますかな? ハハ、なあに、今日は私がおごりますよ。
ヴィン ルーランさん、ホンにあんたには、アルルに来て以来、ずいぶんお世話になるなあ。
ルー なあに、――これで私は何にもわかりやしませんがね、そいでも絵が好きで、そいでまあ、こうしてあなたともナニしてもらって、肖像画も描いていただいたし、お世話のなんのと、そいつはアベコベでさ。(ゴッホを助けて歩き出す)
ヴィン いやいや、僕の方が――悪いのは僕の方だ。
ルー え? 悪いとおっしゃると?
ヴィン 僕の方なんだ。
ヴィンセントの声 悪いのは俺だ。ゴーガンは悪くない。ゴーガンはいつでも正しい。ゴーガンは強い。強いと言うことは正しいと言うことだ。しかし、しかし、ゴーガンは、ホントに正しいのか? そして俺はいつでも旅団長なのか? 耳の長い驢馬なのか? ゴーガンに俺のことを耳の長い驢馬など言う資格があるのか? いやいや、いやいや、それでも悪いのは俺だ。あんな偉大な画家で先輩のゴーガンにアブサンぶっかけたりしたのは悪いとも! 今日帰ったらゴーガンに俺はあやまらなければならぬ。そうだとも!
ヴィン そうだ、あやまる。
ルー なあに、あなた、あやまるなんて、そんな大げさなことをおっしゃらなくたって、ハハ!
ヴィン ルーラン、君はホントに、ホントに善い人だなあ!(言いながらルーランの大きな手を取って、その手へ自分の頬を持って行く)
ルー おや! あんた、泣いているね。
ヴィン ? うん、いや。何でもない。何でもないんだ。
ヴィンセントの声 そうなんだ。人間はみんなみんな善いんだ。ゴーガンも善い人間だ。人間はお互いにホントにあやまり合って、仲よくやって行くのが本当だ。何を俺は苦しんでいるんだ? 貧しい、打ちくだかれた心で、生きて行けば、すべては明るく、すべては幸福に行く。それに気がつかないとは、何と俺は馬鹿だろう。こんなに明るい空がある。この空を俺は描ける。なにが不足なんだ? ゴーガンは善い奴だ。俺は帰ったら直ぐに、心からあやまろう……

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声がそう言っている間に、ルーランとヴィンセントの姿は街道を下手へ歩み去って消える。
[#ここで字下げ終わり]
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     5 黄色い家で

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「アルルの女」第二組曲4の「ファランドール舞曲」。曲の途中から、それに合せて踊っている小さな靴音がカタコト、カタコトと混る。
かなり広い二つの室をぶちぬいてアトリエにしてある。下手にベッドのある小部屋(ゴーガンの寝室)。上手に、あまり高くない階段があり、階段の上にベッドのある小部屋(ゴッホの寝室)。正面に入口。アトリエの上手前寄りにスタンドがあり、それに水差しや洗面器、コップなどのせてあり、洗面場になっていると同時に簡単な食事の仕度もそこでするらしい。アトリエには中央に寄せた二つのテーブル、四、五の椅子、テーブルの上には壺に差したままカラカラに枯れた向日葵。ゴーガンのイーゼルとヴィンセントのイーゼルが、テーブルの右と左に立っており、ゴーガンのイーゼルには、向日葵を描いているゴッホの肖像の完成に近いのがのっており、ゴッホのイーゼルには、何枚目かの「向日葵」がのっている。壁のわきにはたくさんのカンバスが向う向きに立てかけてある。アトリエも寝室もガランとして貧しい。上手半分がゴッホの領分になっているらしく、床の上にデッサンの紙やチューブやボロ切れがメチャメチャにちらかり、階段には本が開いたまま投げ出してあったり、二階の寝室もひどく取りちらしてある。それに較べるとゴーガンの領分の下手半分と寝室はキチンと整理してある。その対照が一目でハッキリわかる。二つの窓から日暮れ前の広場の冬ざれた樹立が見える。――ゴーガンが、テーブルの下手の椅子にダラリとかけて、三角パンをムシャムシャやりながら、気のない風に膝の上のスケッチ・ブロックにクレヨンを走らせている。中央の床の上で、十七、八の女ラシェルが、すぐ裏にあるレストランから聞えて来る「ファランドール舞曲」の笛の音に合せて、手振り足振りスカートをなびかせて、自己流に踊っている。乳房のへんまで切りさげた派手なブラウスに黒いスカートの、言うこともすることもひどく軽くて、五フラン屋の商売女じみた所はなく、すこし馬鹿な小妖精じみた感じの女。……曲が終る。
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ラシ フウ、くたびれた!
ゴー うまいじゃないか。
ラシ だって、あたしの村では、春の祭りには毎年これを踊るんだもの。アルルの、このへんでも踊るわ。みんなで広場に集ってね。(ドサンと椅子の一つに掛けて)そんでも、こっちい来て、お店に出るようになったら、もう駄目だな。足のさばきが以前のように早く出来ない。
ゴー 毎晩毎晩、あんまり足をさばくからな。
ラシ いやあだ!
ゴー あの店に来て、君、どれくらいになる?
ラシ この冬でそろそろ一年になるわ。
ゴー どうだ、田舎に居るのと、今の商売と、どっちが良い?
ラシ そりゃ、今の方が良いわ。田舎に居ると、おっ母さんには始終ガミガミ言われるし、綺麗な着物一つ着られるじゃなし、第一食物があんた、肉なんぞ一週間にせいぜい一度、チーズもない時があるのよ。ここだと、肉は毎日、お客さんが葡萄酒は飲ましてくれる――
ゴー 飲ましてくれる代りにゃ、それぞれチャンとお相手をつかまつらなきゃなるまい?
ラシ それだって、暮しを立てる仕事だと思やあ、それほどつらくもないわよ。だって、どこに居たって、どっちみち私たちみたいな身分では、自分の身体を使って食べて行かなきゃならないもの。田舎では私もおっ母さんも大百姓の家へ日雇いに出て働いていたのよ。同じことじゃない?
ゴー ふん。
ラシ そりゃ、今のお店、時には、つらくないことはないわ。でも仕方がないでしょう? だから私、なんにも考えないことにしているの。馬鹿だと思ってんの、人間なんて。自分もお客さんも。だから、いっそ面白いわ。ただ、兵隊のお客さんだけは嫌だわね、乱暴で。
ゴー また、よく来るなあ、スワーヴ兵の奴ら。中尉のミリエなんぞ近ごろ来るかね?
ラシ よんべも来たわよ。しかし、あの人は、ローザのお客よ。あたいは、よんべは、お茶引いちゃった。
ゴー ははん、そこで今日はお前、ヴィンセントを呼び出しに御出張と来たな?
ラシ そういう訳ではないのよ。おかみさんに頼まれて、駅んとこまで買物があったんで、どうなすってるかと思ってチョット寄って見たんだわ。
ゴー しかし呼び出すにしたって、エサがこんな二つや三つの三角パンくらいじゃ、ごめんだぞ。ゴッホが行くと言ったって、俺がやらない。
ラシ エサなんて、そんなつもりじゃなくってよ。あんた方、絵ばかり描いていて、一日中なんにも食べないことがよくあるんでしょ? 可哀そうだと思って、私のおこづかいで買って来てあげたのよ。……だけど、フウ・ルウは、どこへ行ったの、ずいぶん遅いわね?
ゴー そら見ろ、ヴィンセントを待ってるくせに。ハハ、なに、もうすぐ帰って来るよ。だが、どうしてお前たちは、あの男のことをフウ・ルウなんて言うんだい?
ラシ 町の人がみんなそう言ってるのよ。だって、そうでしょ、あの人と来たら夏の間じゅう、七つ道具をかついで、熱病やみのような眼をしてさ、日の出ないうちに町から駆け出して行くんだもの。そうしちゃ、頭のテッペンを生肉のように真赤にして、描きあげた絵を振りまわして、ブツブツひとりごとを言いながら帰って来るのよ。だから、赤毛の馬鹿、フウ・ルウ!
ゴー 赤毛の馬鹿か。
ラシ あたしん所へ初めてあの人が来た時、ベッドに入ってから、あたい、そう言ってやった。あんたのこと、町の人が何と言ってるか知ってる? って聞いたら、あの人ったら悲しそうな顔して、何と言ったと思って? 知ってるよ、多分俺は赤毛の馬鹿なんだろう。だって俺にはそれをどうしようもないじゃないか。
ゴー フフ、フフフ!
ラシ あたいも笑っちゃった、しかし、そん時から、あたしあの人と仲好しになっちゃった。ホントに好きになったくらいよ。
ゴー すると、お前もあの男も、すっかり御満足になったと言うわけだね? そいつは結構だ。
ラシ え、なにさ? ええ、ええ、そりゃそうだわよ。だから、これからチョイチョイ来てちょうだいと私言ったのよ。そしたらね、来たいには来たいけど、金がないからそんなには来られないと言うの。だから私、金のない時はあんたの耳を私んとこに持って来てちょうだいって言ってやった。あの人、とても大きな飛び出した耳をしてるでしょ、ホ、ホ、まるで驢馬の耳みたいな?
ゴー そう言やあ、そうだ。(自分の描いたヴィンセントの肖像に眼をやって)フフ、そうさ。
ラシ ね、ホホ、そしたら、あの人とても喜んで、じゃそのうちキット持って来ると言うの。ハハ! うれしくなっちゃった、あたい! あんな怖い顔をしてるくせに、あんな善い人ってないわよ。
ゴー そりゃそうだ、たしかに。まあ、せいぜい可愛がってやってくれ。
ラシ だけど、あの人、ここが少しこれでしょう?(こめかみに指を持って行って廻して見せる)じゃなくって?
ゴー む、ちょっとね。だが、変だと言やあ、俺なぞも相当だぞ、わかるかね、だから、こんな所にグズグズして本物の気ちがいにならぬうちに、俺なぞ一日も早く南の天国へ行くよ。
ラシ え、どっかへ行くの、あんた? よしなさいよ。アルルよか良い所、世界中になくってよ。第一あんたがどっかへ行っちまうとフウ・ルウ、とても寂しがってよ。
ゴー そんなこたアないよ。ゴッホのためにも俺あ早くここを立ち去った方がいいんだ。俺が居るとあの男は気が立っていけない。
ラシ そん
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