X子をかぶった洗濯女の一群がいる。女たちの笑いさざめく声が川面にひろがり、橋を渡る馬車のわだちの音がガラガラと鳴り、それらが響きかわして、絵を描いている俺の所までとどいて来た。あの馬車には、アルルに来てから俺の知り合いになった百姓が乗っているかも知れない。洗濯女の中には、善良な郵便配達ルーランのおかみさんが、まじっているようだ。……俺は筆を使いながら、遅まきながら画家になった自分をシミジミと幸福だと思った。俺はホントに幸福だ。……俺はまた、もう一枚田舎の小さい橋と、もっと大勢の洗濯女との風景を描いた。駅のそばのプラターヌの並木道も描いた。仕事のための着想は群がるように湧いて来る。だから孤独ではあってもそれを感じている暇もない。俺は蒸気機関車のように描きつづけている。グイグイと仕事が進む。一日に一枚ずつ時によると二枚も仕上げることがある。俺はまるで自分が日本に居るような気がする。俺はここに来てはじめて、自分を発見した。完全に独創的な画家として自分を打ち立てた。形も色も恐ろしい程にハッキリ見え、見たものを少しの疑いもなくカンバスに描ける。パリでは、いろいろの刺戟が強過ぎたし、他からの影響に動かされ過ぎて、自分を失い、乱れ疲れてばかり居たのだ。それがわかった。もう俺はどんなことがあっても自分を取り失いはしないだろう。テオよ、とは言っても俺はゴーマンにはなっていない。俺にはまだ傑作は描けない。俺の技術はまだギクシャクして完全ではない。しかし独創的な――他人からの借り物でない――これこそヴィンセント・ヴァン・ゴッホであり、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ以外のものではない線が描けるようになった。これもお前のおかげだ。お前は俺を愛してくれ、尊敬してくれ、俺が絵を描きはじめて以来、一月もかかさずに、自分の働いて得た金の中から、俺の生活費と絵の材料の費用を送ってくれる。何と言うお前は良い弟か。そのお前の愛情と尊敬とギセイに、いくらかふさわしい画家に、やっと俺はなりかけている。俺がもし立派な絵を描くことが出来れば、その作品は文字通りお前との合作だ。わかるかいテオ? 俺はお前にこう言えることが、こう言えるようになったことが、うれしく、誇らしくてならないのだよ。俺はボリナーヂュで神を見失った。その後ハーグでもヌエネンでもアムステルダムでもパリでも、神は俺には見つからず、現在でもキリストの神がどこに居るのか俺にはわからない。しかしお前がこれほど俺を愛してくれ、俺がこれほどお前を愛し、してまた、俺はゴーガンやベルナールやタンギイや労働者や百姓や、しいたげられた女たちを愛している。そして俺には絵がある。絵を描くための労働がある。それならばもし神が居ないとしても、何かが居るのだ。
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   「黄色い家」
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ヴィンセントの声 テオよ、やっとやっとゴーガンが到着した。彼は元気だ。そして、お前の斡旋で自分の絵の売れたことを喜んでいるし、こちらでは俺が家や部屋など一切のことを、スッカリととのえて置いたので、すぐに気持良く仕事が出来るので、ひどく悦んでいる。俺も勿論非常に愉快だ。生活は今までよりも軽くなる。彼はすぐれた画家だし、面白い人間だ。彼と一緒ならば、俺も彼もともにたくさん仕事が出来るだろう。すべては、実にうまく行きつつある。テオよ、これがゴーガンと俺の住んでいる黄色い家だ。ラマルチーヌ広場にある右がわの二階家で、ルーランの世話で家賃はたった月に十五フラン。俺は家をペンキで黄色く塗った。部屋が四つ有るから俺とゴーガンは、それぞれ自分の寝室を持っている。……テオよ、白状すると、しばらく前から俺は身体の調子が悪かった。食事が不規則なために胃が悪いのと時々頭がボンヤリして意識が薄れるような気がすることがある。外で絵を描いていて、倒れたこともある。俺は何か、ひどく身体が悪くなりそうな気がして、不安で不安でたまらなかった。そこへゴーガンが来てくれた。不安は消えた。いまでは無事に切抜けられる自信を持っている。俺たち二人は一カ月二百五十フラン以上は使わない。ゴーガンは料理がうまい。俺も彼から習おうと思っている。こうして安上りに共同生活しながら、二人でグングンと立派な製作をする! そのうちに、印象派の画家たちや若い画家たちがここにやって来ていっしょに暮し、いっしょに絵を描いてその指導者にゴーガンがなる! 愉快ではないか。ハハ!(神経的に、しかし愉快そうに笑って)ゴーガンは早くも、自分のアルルの女を見つけたらしいよ! 俺も、あれくらいに恋愛の腕があると良いと思うが、しかし俺の手の届くのは風景だけだ。フフ! 俺たちは大いに女郎屋を研究しに行くつもりでいる。毎日、朝から晩まで二人とも仕事仕事で過ぎて行く。夕方になると俺たちはヘトヘトになってカッフェへ行く。そのカッフェの夜の景色をそのうち俺は描こうと思う。ガス燈がきらめき、青い夜空に星がまたたく。そのテラスでは、ここに来て俺が知り合った士官のミリエや、画家のボッシュや喜劇俳優や、たまにはルーランも寄って、コーヒーを飲み、小さいパンを食べ、白葡萄酒に時々はアブサンを飲む。アルルの夜のとばりが、さわやかな物音を沈めて落ちて来る。テオよ、俺は幸福だ。
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   「夜のカッフェ」
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ヴィンセントの声 (前とはガラリと変って暗く、ギクシャクと言葉の調子が乱れている)テオよ、俺は相変らずグングンと製作している。しかし時々頭がグラグラしたり、ここから逃げ出して行きたくなる。どうしてか、わからない。俺の頭の中で妙なものが、うごめいている。時々俺は絶望におそわれる。俺は遂に画家として完成されないだろう。ゴーガンの絵は売れるのに俺の絵は一枚も売れない。俺は部屋の中をカンバスで一杯にしていながら、一枚も送れるものがない。ゴーガンは俺のことを「旅団長、旅団長」と言うが、実際、俺は才能もなんにもない歩兵旅団かも知れないと思うことがある。……それに較べるとゴーガンは偉大な芸術家だ。彼は「葡萄をもぐ女たち」を完成した。これは「黒人の女」にも劣らぬ見事なものだ。彼は「夜のカッフェ」もほとんど完成し、今は非常に独創的な裸婦を乾草の中に、豚といっしょに描いている。これは非常に立派な実に特異なものになりそうだ。ゴーガンは、いつでも堂々と自信を持ち、牛のような力で描いて行く。実にうらやましい、見事な態度だ。俺は彼から学ばなければならぬ。しかし、俺はゴーガンのようにユックリ絵具を塗ってはいられない。仕事が間に合わないほどたくさんあるからだ。俺には俺の行き方がある。俺はゴーガンと競争しようとは思わない。しかしゴーガンを見ていると、俺はイライラして、手がふるえ出し、頭がキーンと鳴り出すのだ。俺はまた、病気の発作に襲われるのではないかと言う気がする。しかしテオよ、あまり心配しないでくれ、俺は充分気をつけている。ミストラルが吹く時には、屋外の写生には出ないようにして、アトリエで描く。心配しないでくれ。……ゴーガンが昨日、クロード・モネエの「向日葵」の絵を見た話をした。その向日葵は日本製の大きな花瓶にさしてあるそうだ。実に立派な絵だそうだ。しかし、そのモネエよりも俺の「向日葵」の方が好きだとゴーガンは言った。……俺はゴーガンの言葉を信じない。ゴーガンは立派な人間だから嘘を言っているとは思えない。しかし俺は信じない。信じられない。
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   「向日葵」
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ヴィンセントの声 (続いてソワソワとした早口)ゴーガンは強い。意地が悪い。絵を描くために罪もない奥さんと子供たちを捨ててしまって平気な男だ。画家としては偉大だが、人間としては悪魔のような男だ。……いやいや、そうではない、彼は実に親切な人間だ。彼はこの間も俺に、あんまり厚く塗った絵具の油を時々拭きとる方法を教えてくれた。そうすると色が鋭く冴えるのだ。ゴーガンに反感を持ったり憎んだりするのは俺が悪い。それは俺が弱くて、イライラばかりしているからだ。……テオよ、これがその描きかけの「向日葵」だ。君は、どう思う。俺は今三十五だ。とにかく、四十歳になるまでに俺は、そのモネエの「向日葵」に匹敵するような人物画を一枚でも描くことが出来たら、俺は芸術の上で誰か――それは誰でもかまわない――誰かの隣りに一つの席を占められるだろう。だから、ヴィンセントよ、忍耐しろ、忍耐しろ! ……近頃ゴーガンは、アルルの町や俺たちの黄色い家や、特に俺に対して、機嫌をそこねているように思う。何かと言うとアルルの一切のものを呪い、一日も早く、金の出来次第、南洋群島の方へ行くんだと言う。しかし俺は今ゴーガンに行ってしまわれるのが恐ろしい。だから行かないように頼んでいる。そのことで時々口喧嘩のようになる。それらのホントの原因は、外部によりも俺とゴーガンの内部に在る。自分のうちに強烈な創造力を持った人間が二人寄ると、長くは一緒に暮して行けないのだろうか? ゴーガンと俺とは昨夜、ドラクロアとレムブラントについて議論した。俺たちの議論は物凄く電気的だ。議論の後では、俺たちの頭は、電池が放電してしまった後のように困憊しつくす。そしたらゴーガンが自分の絵と俺の絵のことを言い出した。やっぱり君は旅団長だ、人の影響を受け過ぎる、現に俺の色の塗り方を真似て、ツーシュの幅が広くなってるじゃないか、そう言うのだ。俺はグッと来た。しかしジッと我慢した。頭の中が鳴り出したが我慢した。……するとゴーガンが出しぬけに、せせら笑いをしながらラシェルのことを言い出した。ラシェルと言うのは、はじめ俺と仲好くなり、ゴーガンが来てからはゴーガンと仲好くなった五フラン屋の女だ。――カーッとなってしまった俺は、眼の中から光が飛び散る。ゴーガンの歪んだ鼻! それを目がけてアブサンのコップをビュッと投げた! どこかで、チャリンと鳴って、白い炎が立ちあがる、白い炎が――
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   「製作へ」
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アルルの街道をヴィンセントが七つ道具をかついで写生を行っている絵。ただし、この場合は幻燈スライドではなく、この絵からヴィンセントの姿だけをのぞいて実景大に引き伸ばし、ホリゾントを使って眼もくらめるばかり明るくした装置である。風景の中に人影はない。
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ヴィンセントの声 (しばらく沈黙していてから、弱り果てた低い声で)テオよ、これがアルルの街道だ。夏の間は毎日のように俺はここを通って写生に出かけた。今は夏も過ぎ、秋も終って、そろそろ冬だ。近ごろではたいがいアトリエで仕事をするが、今日はしばらくぶりでここへ出かけてスケッチして来た。俺はこの絵のまんなかに、絵の具をかついで製作に出かけて行っている俺の自画像を描きこむつもりだ。……ほらほら、向うから俺の仲好しのルーランがやって来た。今日はもう夕方で、配達は全部終ったと見えて、カバンも軽そうだ。良いヒゲだろう? ね、顔はソクラテスに似ているだろう!(言葉の中に、そのルーランが、青い制服制帽に大きなカバンを肩から斜めにかけて、街道を上手から歩いて来る。一日の働きを終った後の上機嫌で、何かの鼻歌を小声でやりながら)ルーランは、これから家に帰るんだ。気が向くと、途中であのカッフェに寄ってペリティーフを一杯ひっかける。しかし、深酒はしない。家には人の好いおかみさんと子供たちが、一緒に夕飯を食べようと首を長くして待っているからだ。テオよ、心貧しく、人を憎まず、働いて妻と子を養っている人々の姿の、なんと美しいことだ! 俺は涙が出る! ……(ルーランは中央あたりまで来て、道ばたの草むらの中に何かを見出してギョッとして立ち停る。やがて、怖わ怖わ近より、覗いてそれが人であることに気がつく)
ルー ……これこれ、あんた――(その人の肩に手をかけて)ああ、ゴッホさんじゃありませんか! ど
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