ネたも絵をお描きになるんだ。そんなら、わかって下さるでしょう。画家には色よりもデッサンの方が大事です。こんな風にしてですね、足をふん張って、こうしていれば――
ゴー もうやめないか、ヴィンセント君!
ヴィン ああ、ゴーガン君? 君もいたんですか。
ゴー もうよしたまいよ。相変らずの旅団長だなあ。
ヴィン うん。……(ゴーガンを見ているうちに、燃えていた火に水をかけられたように、不意に静かになってしまう)しかし……(言葉を切って、落ち物がしたようにそのへんを見まわす。その間にベルナールが、ヴィンセントのカンバスを正面の壁に立てかける。ほとんど完成している「セイヌ河岸」。……一同が自然にそれを見守ることになる……)
ベル ……まあ、綺麗!
ロート ……うん、悪くない。だけど、空が、君の空じゃないな。この頃ルノアールでも見たんじゃないかね?
ヴィン そ、そんな、トゥールズ――
ゴー ルノアールは、年中自然と野合してイチャついてるよ。だが、ルノアールもルノアールだが、ここん所の(絵を指して)木や土手なぞの点描が気になる。スーラをこんなに受入れるのは無邪気すぎる。川の水は、シニャック、君じゃないかね? どれ、(とシニャックの手からカンバスを取り、ゴッホの絵と並べて置く。似た構図の絵)ね、どうだい?
シニ そんなことはない。僕のは僕ので、ヴィンセントのは、あくまでヴィンセントの絵だ。
ゴー とにかく、ほかからの影響を受け過ぎるんじゃないかなあ。
ヴィン そんなことはない。僕はただ君たちの色を取り入れ、学んでいるだけだ。僕にはそれが必要なんだ。必要だったんだ。
ゴー それはいささか。しかし、もう少し落ちつくことだな。そんなにあわてていると、ロクなことはないよ。第一、君は色を学んでいると言っていながら、先刻は色よりもデッサンの方が大事だと言っている。その時々でああ言ったりこう言ったり、メチャメチャじゃないか。
ヴィン メチャメチャじゃないよ。だから、必要だった、だったと言っているじゃないか。それを僕はパリへ来て、ピッサロやセザンヌや君や――君たちから学んだ。来て見て、ホントにびっくりしたんだ僕は。一度にグラッグラッとして、まるで立っていられないくらいに革命が起きちゃった。
ゴー また、大げさなことを言う。そういうのは僕は嫌いだ。
ヴィン でも事実そうだったんだもの。そいで、学んだ。僕のパレットの上はスッカリ変ってしまった。明るくなった僕の絵は。ね、そうだろ? そうは思わないかねトゥールズ?
ロート そうだ、そうだ。しかし、もうその話はいいじゃないか。(立つ)
ヴィン そうだねエミール?
エミ そうですよ、たしかに。
ベル さあ、もうタンブランの方へ行かないと、おそくなってしまいますわ。(立つ)シニャックさんも御一緒にいらっしゃいません?
シニ 展覧会ですか、ええお供しましょう。
ヴィン (あわてて)ま、待って下さい待って下さい。ねゴーガン! ところが僕は近頃、気がついたんだ。先刻シニャックにも話したんだが、色彩は大事だ。しかし一番大事なものは色彩じゃない、やっぱりデッサンだ。いや、デッサンと言うと、やっぱり違う。技法としてのデッサンではない。実体のことだ。描こうとする物の、当の実在のことだ。リアリティのことだ。そこに物が在ると言うことなんだ。セザンヌのリアリザシォンのことじゃない。あれは表現上の方法のことだ。僕の言うのは物自体のことなんだ。これを掴まえることが画家の一番大事なことだと言うことに気がついたんだ。もちろん色彩は大事だよ。しかし、色彩だけでは片付かない問題がある。それに気がついて僕は――
ゴー 物自体なんてないね。イマジナシォンが在るきりだよ。画家は自分のイマージュで、自分の中に在る絵を描くんだ。また、人間にはそれしきゃ出来んよ。
ヴィン ちがう! ちがうよ、ポール! 聞いてくれ、それは――
ロート (ベルトやシニャックやベルナールなどとともに店を出て行きかけながら)物の実在なんてないぞヴィンセント。人が在ると思っているきりだ。在るのは夢だけだよ。幻だけだよ。君が実在していると思っているのは、君がそう思っているだけだ。フフ、もういいじゃないか、そんなこと。いっしょにタンブランへ行って、飲もう。
ヴィン いや僕は行けない。これから、タンギイを描かなきゃならん。だから、ま、ま、ちょっと、みんな待ってくれ。ね、ゴーガン、僕の言うことをわかってくれ。その――
ゴー わかったよ。君はただ混乱しているだけだよ。忠告して置くが、そんな調子だとロクなことはない。現に、その絵だ。(と「タンギイ像」を指し)絵として悪くはない。しかし、よく見るとメチャメチャだ。トーンがない。アルモニイがない。統一が欠けている。それは君が、グラグラとセンチメンタルにばかりなっているからだよ。(ヴィンセント、ギクンとして、石になったように「タンギイ像」を凝視する。その間に、ゴーガンは、その絵を先程テオに向って褒めたのと今の批評の言葉が矛盾していることに自ら気がついているのかつかないのか平然として、タンギイに)……タンギイ小父さん、十フランだけ貸してくれないかね。昨日の朝から何も食っていない。すこし腹がへった。
タン ……でも、この前にお貸ししたのが、まだ――
ゴー グーピルでテオドール君が一枚売ってくれそうなんだ。売れたら、一度に返す。(彼の言い方には妙に圧力がある。タンギイは、それに押されて、しぶしぶしながら、ポケットの財布から金を出して、ゴーガンに渡す。……ゴーガンは別に礼も言わず、それをポケットにほうり込んで、出て行きかける。他の四人は入口の所で待っている)
ヴィン ……(絵の凝視から不意に醒めて、あわててゴーガンの前に廻って)ま、待ってくれ。僕の言っているのはね、いや、いや、この絵はそうかも知れない、メチャメチャかも知れない。トーンがないのは、君の言う通りかも知れない。そのことじゃないんだ。僕の言いたいのは、それじゃないんだよ。わかってくれ、ゴーガン。君は僕の先輩だ。すぐれた画家だ。頼りにしている僕は。ね、わかってくれ、僕が実在だと言うのは、この、つまり、タンギイならタンギイの、こう描いてある着物の下にだな――いや、僕でも良い。この、この着物の下に――(と、せき込んで言っている内に気がいらって、いきなりナッパ服を脱いでしまう。下には襟なしのシャツだけ)こうして、身体がチャンと在る。こ、これが人間だ。ヴィンセント・ヴァン・ゴッホだ。これが実在なんだ。(ズボンまでぬいでしまう。滑稽なズボンした)ね! ね! それを画家は描かなきゃならないんだ。表面の着物だけでなくだ、色だけでなく――それを僕は――わかってくれゴーガン。頼むから!(ゴーガンの膝に取りついて、何度も頭を下げる)
ゴー 僕は君に忠告する。そこをどきたまい。そして、もう少し落ち着きたまい。
ロート (笑って歩き出しながら)さあ、もう行くぜ。
ヴィン ま、待って、トゥールズ! ベルナール! どうか頼むから――(と、そちらへ向ってもお辞儀をする)
ゴー うるさい。……(すがりついて来るヴィンセントを、いきなり軽々とひっかかえて、わきの売台の上にヒョイとのせ、サッサと出て行く。ゴーガンを迎えた四人は、こちらを振返って見ながら、向うへ立ち去って行く……)
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不意に店にはヴィンセントとタンギイの二人だけが残されてしまう。……売台の上に滑稽な下着だけで、両足をブラリとさせて、黙りこんでしまってキョロンと坐ったヴィンセントの寂しい姿。それをタンギイが気の毒そうに眺めている。
間……どこかで、微かな鐘が鳴る。
[#ここで字下げ終わり]
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タン ゴッホさん。
ヴィン ……。
タン 風を、ひきますよ。……そんな恰好で、いつまでもいると。
ヴィン ……。
タン ……(奥へ)おい、お前――(おかみは奥で居眠りでもしているか、返事なし。タンギイ、売台の方へ寄って行き、落ちているズボンと上着を拾って、台の上に置く)さあさ、着なすったら……
ヴィン ……(唖になったよう。顔も急に陰鬱になり、眼の色も暗く鈍くなっている)
タン (しかたなく、垂れた足にズボンをはかせる)どうしました? ……なに、ゴーガンさんは善い人でさ。……あんまり、あなたが、昂奮して言いなさるもんだから。フフ、そんな、あなた、先は永いんだから……
ヴィン ……(人がちがったようにノロノロした動作で売台からおりて、ズボンのボタンをかけ、上着に手を通す)……(非常に沈んだ声で)どうして、こうなんだろう僕は? ……ゴーガンは偉い人間だ、たしかに。……ホントだ、僕は昂奮しすぎる。僕が、悪い。……(言いながらユックリ歩いて「タンギイ像」の前に来て、無意識にそれを見ている)ふん。……先は永い……先は永い?(ヒョイとタンギイを見る)……いや、そうじゃない。僕は急がなきゃならない。……(再び「タンギイ像」に眼をやる。片手を前に出して、画面をいろいろにさえぎって見ながら)……トーン? アルモニイか。イマージュ。……(ほとんど無意識に先程投げ出してあった絵具箱の方へ行き、それを抱えて絵の方へ行き、箱を開け、パレットと筆を出して、椅子を引き寄せて絵に向っている)
タン 坐るんですか? 今日は、よしにしといたら、どうですかね?
ヴィン ……(そう言っているタンギイを、既に画家の眼でみつめ、筆が知らず知らずパレットに行っている。タンギイは、それから縛られたようになって、ひとりでに、いつもモデルとして掛けることになっている壁の前の椅子に行って掛けている)
ヴィン シャッポは?
タン ああ、そうそう。(と、壁の下方にかけてある麦わら帽子をかぶる。「タンギイ像」のタンギイになる)
ヴィン ……(それを見、次にパレットの上で絵具をつけた筆をカンパスに持って行き、塗りかけるが、塗らないで、筆を持った手で、自分の額をつかむ)
タン どうしました?
ヴィン ……頭が痛い。
タン あんまり、この、昂奮なさるから。……いっとき休んでいったらどうですかな。
ヴィン いや、大したことはない。近頃ちょいちょい、こんなことがあるんだ。……痛むと言うよりも、何か鳴るんだ。キューンと鳴って、そこら中がキラキラと白く見える。
タン あんまり根をつめて描き過ぎるんじゃありませんかねえ。……すこし旅行でもなすったら? ……アルルかニースあたりに行ったらって、ロートレックさんも、こないだ言ってらしたじゃありませんか?
ヴィン ロートレック……あれは良い男だ。アルル……でも、そんなことをすると、また金がかかる。テオドールに苦労をかけることになる。……そうでなくても、テオは楽ではない。そりゃ、僕の描いた絵はみんなテオの物になると言う約束で金を出してくれていて、嫌な顔などテオはしない。しないけど時々僕は、すまなくなることがある。
タン テオさんて方は、まったく良い弟さんだ。兄さんのことをあんだけ気にかけている弟と言うのは見たことがありませんね。
ヴィン 僕にはもったいない弟だ。だのに、僕は一生あれの厄介になり、あれを苦しめなけりゃならない。だって、僕の絵はまだ一枚も売れない。
タン なに、そのうちに売れますよ。これだけ立派な絵を描いていらっしゃるんだ。そりゃ、みんな、すぐれた絵かきさんは、なかなか認められません。現にピッサロさんやマネエさんなどもう五十過ぎです。それが、やっと売れはじめたのはこの二、三年のこってす。世間と言うものはそんなもんでさ。目の前で天才が飢えて死んでも知らん顔をしているくせに、ズーッと後になるとヤイヤイもてはやす。世間と言うものは、そういう馬鹿でさ、私なんぞ、なんにも深いことはわかりゃしませんけど、絵が好きですからね、とにかく良い絵と悪い絵くらいはわかりますからね、まあとにかく、すぐれた絵かきさんで、世間の馬鹿が認めないために貧乏している皆さんのために、ホンの少しでも役に立てばと思って、こうやって絵具屋をやっていますが――
ヴィン 小父
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