`がこちらに向く。シィヌの裸体の坐像)
ヴィン 見ろ! シィヌの言う通りだ。子供のラクガキみたいな、うすっ汚い――(スーッとあたりが暗くなる)
テオ そんなことはありませんよ!
ヴィン (ほとんど泣き声)俺は三十だ。だのに、この通り、まだデッサンひとつ、ちゃんとやれない。……死んだ方が、ましだ。どうすればいいんだよ。え、テオ?
テオ そんな、そんな、気を落しちゃ、いけない! 兄さんには描けるんだ。よく、ごらんなさいこの絵を。ようく、ごらんなさいよ、この絵を。
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既に真暗になってしまって、ヴィンセントの姿もテオの姿も、室内の影も全部見えなくなり、「悲哀」の素描だけがクッキリと浮びあがって見える。……隣室でヘルマンのまた泣き出した声が弱々しく低く聞え、続く。……
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3 タンギイの店
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軽快な浮々とした音楽。
パリの町の、繁華の場所からチョット引っこんだ、古いクラウゼル街の、ペール・タンギイの絵具屋の店内から街路を見たところ。店と言っても、ごくささやかな、浅い内部で、一番手前に茶テーブルと二、三の椅子、上手は絵具を入れた箱の並んだ棚を背に売台になって居り、下手はガラスの飾窓の中に額に入れた数枚の絵が、裏向きに(つまり奥の街路から通行者が見られるように)並べてあり、開け放たれた正面の入口へ十歩も歩めば、すぐ外は横町の街路である。
よく晴れた、しかしシットリと明るい秋の午後の、路ばたに一、二本見えるマロニエの葉がすこし黄ばんで、その下を人通りがチラホラ。入口の柱や窓のワクや売台から、ハメ板まで眼のさめるような碧色に塗られ、それが外景の軟かい白や薄黄に対照する。……上手の手前に店の奥への通路。下手の茶テーブルのわきに斜めに片寄せたイーゼルの上に半分描きかけの「タンギイ像」がのっている。壁のあちこちに、フチに入れた浮世絵の版画が四、五枚と、フチに入れない小さい油絵が二、三枚。
上手の売台の中に立って、下手の「タンギイ像」によく似た、ただしそれから麦わら帽子だけをぬがせたタンギイが、若いボヘミアン風の画学生に絵具を売っている。表では通りがかりの娘が一人、めずらしそうに飾窓の中を覗きこんでいる。
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学生 オークルを、もう一本。
タン もうそれでいいでしょう。
学生 またはじまった。僕は風景を描くんだぜ。オークルがなくて、どうして描けるんだい?
タン さあ、それは私にはわかりませんな。とにかく、もう絵具は有りません。
学生 小父さんちは絵具屋だろう?
タン そりゃ、そうでさ。看板にもちャンと書いてあります、絵具販売業、タンギイ。
学生 だから業じゃないか。業なら客に売らなくちゃなるまい?
タン 売りますよ、売るぶんにはいくらでも。
学生 だからオークル一本。
タン 聞きますが、売ると言うのは、品物をお客に渡して、お客から金をもらうことでしょうな? あなたは、この前の分も、まだ払ってくださらない。
学生 だから、こんだおやじから金が送って来たら、今日の分もいっしょに、くださろうと言ってるじゃないか。信用しないかね僕の言うのを?
タン 信用はしますけどね……困りますねえ、とにかく、家では家内があんた、やかましくって。
学生 ははん、クサンチッペか――(店内を見まわす)今日は留守かね?
タン 奥に居ますけどね、とにかく私が後でえらく叱られますから。
学生 クサンチッペとはよく言ったな。ゴーガンが初め言い出したんだって?
タン そうですがね、ありゃ、どう言うわけがあるんですかね?
学生 へえ、知らないのかい? ハハハ、こいつは良いや!
タン どうでゴーガンさんだ、やっぱり悪口でしょうな?
学生 いいや、褒めたんだよ。ギリシャの大哲学者ソクラテスの妻君クサンチッペ。美人でね。ただ少し、口が悪かった。ハハハ、とにかく、だから小父さんはソクラテスと言うことになるじゃないか。
タン 冗談でしょう、へへ。
学生 だから、オークルを貸せよ。
タン 困ったなあ。
学生 それに小父さんは、貧乏絵かきのパトロンだろう? みんなそう言ってる。ペール・タンギイこそ、新しいパリ画壇の守り神である!
タン おだてたって、その手には乗りません。そいつで今までずいぶん引っかけられて来たんだから。第一あなた、こんなちっぽけな店で、そうそうナニしていたんじゃ、忽ち破産ですからね。せいぜい私らに出来ることは、若い絵かきさん方に時々僅かの融通をしてあげるくらいのとこでさ。それと言うのが、私あ絵が飯よりも好きですからな。
学生 その若い絵かきさんじゃ僕はないの? だからさ、よ! その僅かの融通を、ね頼むよ。(十字を切って)金
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