lのパレットの上はスッカリ変ってしまった。明るくなった僕の絵は。ね、そうだろ? そうは思わないかねトゥールズ?
ロート そうだ、そうだ。しかし、もうその話はいいじゃないか。(立つ)
ヴィン そうだねエミール?
エミ そうですよ、たしかに。
ベル さあ、もうタンブランの方へ行かないと、おそくなってしまいますわ。(立つ)シニャックさんも御一緒にいらっしゃいません?
シニ 展覧会ですか、ええお供しましょう。
ヴィン (あわてて)ま、待って下さい待って下さい。ねゴーガン! ところが僕は近頃、気がついたんだ。先刻シニャックにも話したんだが、色彩は大事だ。しかし一番大事なものは色彩じゃない、やっぱりデッサンだ。いや、デッサンと言うと、やっぱり違う。技法としてのデッサンではない。実体のことだ。描こうとする物の、当の実在のことだ。リアリティのことだ。そこに物が在ると言うことなんだ。セザンヌのリアリザシォンのことじゃない。あれは表現上の方法のことだ。僕の言うのは物自体のことなんだ。これを掴まえることが画家の一番大事なことだと言うことに気がついたんだ。もちろん色彩は大事だよ。しかし、色彩だけでは片付かない問題がある。それに気がついて僕は――
ゴー 物自体なんてないね。イマジナシォンが在るきりだよ。画家は自分のイマージュで、自分の中に在る絵を描くんだ。また、人間にはそれしきゃ出来んよ。
ヴィン ちがう! ちがうよ、ポール! 聞いてくれ、それは――
ロート (ベルトやシニャックやベルナールなどとともに店を出て行きかけながら)物の実在なんてないぞヴィンセント。人が在ると思っているきりだ。在るのは夢だけだよ。幻だけだよ。君が実在していると思っているのは、君がそう思っているだけだ。フフ、もういいじゃないか、そんなこと。いっしょにタンブランへ行って、飲もう。
ヴィン いや僕は行けない。これから、タンギイを描かなきゃならん。だから、ま、ま、ちょっと、みんな待ってくれ。ね、ゴーガン、僕の言うことをわかってくれ。その――
ゴー わかったよ。君はただ混乱しているだけだよ。忠告して置くが、そんな調子だとロクなことはない。現に、その絵だ。(と「タンギイ像」を指し)絵として悪くはない。しかし、よく見るとメチャメチャだ。トーンがない。アルモニイがない。統一が欠けている。それは君が、グラグラとセンチメンタルにばかりなっているからだよ。(ヴィンセント、ギクンとして、石になったように「タンギイ像」を凝視する。その間に、ゴーガンは、その絵を先程テオに向って褒めたのと今の批評の言葉が矛盾していることに自ら気がついているのかつかないのか平然として、タンギイに)……タンギイ小父さん、十フランだけ貸してくれないかね。昨日の朝から何も食っていない。すこし腹がへった。
タン ……でも、この前にお貸ししたのが、まだ――
ゴー グーピルでテオドール君が一枚売ってくれそうなんだ。売れたら、一度に返す。(彼の言い方には妙に圧力がある。タンギイは、それに押されて、しぶしぶしながら、ポケットの財布から金を出して、ゴーガンに渡す。……ゴーガンは別に礼も言わず、それをポケットにほうり込んで、出て行きかける。他の四人は入口の所で待っている)
ヴィン ……(絵の凝視から不意に醒めて、あわててゴーガンの前に廻って)ま、待ってくれ。僕の言っているのはね、いや、いや、この絵はそうかも知れない、メチャメチャかも知れない。トーンがないのは、君の言う通りかも知れない。そのことじゃないんだ。僕の言いたいのは、それじゃないんだよ。わかってくれ、ゴーガン。君は僕の先輩だ。すぐれた画家だ。頼りにしている僕は。ね、わかってくれ、僕が実在だと言うのは、この、つまり、タンギイならタンギイの、こう描いてある着物の下にだな――いや、僕でも良い。この、この着物の下に――(と、せき込んで言っている内に気がいらって、いきなりナッパ服を脱いでしまう。下には襟なしのシャツだけ)こうして、身体がチャンと在る。こ、これが人間だ。ヴィンセント・ヴァン・ゴッホだ。これが実在なんだ。(ズボンまでぬいでしまう。滑稽なズボンした)ね! ね! それを画家は描かなきゃならないんだ。表面の着物だけでなくだ、色だけでなく――それを僕は――わかってくれゴーガン。頼むから!(ゴーガンの膝に取りついて、何度も頭を下げる)
ゴー 僕は君に忠告する。そこをどきたまい。そして、もう少し落ち着きたまい。
ロート (笑って歩き出しながら)さあ、もう行くぜ。
ヴィン ま、待って、トゥールズ! ベルナール! どうか頼むから――(と、そちらへ向ってもお辞儀をする)
ゴー うるさい。……(すがりついて来るヴィンセントを、いきなり軽々とひっかかえて、わきの売台の上にヒョイとのせ、サッサと出て行く。ゴ
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