[ガンを迎えた四人は、こちらを振返って見ながら、向うへ立ち去って行く……)

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不意に店にはヴィンセントとタンギイの二人だけが残されてしまう。……売台の上に滑稽な下着だけで、両足をブラリとさせて、黙りこんでしまってキョロンと坐ったヴィンセントの寂しい姿。それをタンギイが気の毒そうに眺めている。
間……どこかで、微かな鐘が鳴る。
[#ここで字下げ終わり]

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タン ゴッホさん。
ヴィン ……。
タン 風を、ひきますよ。……そんな恰好で、いつまでもいると。
ヴィン ……。
タン ……(奥へ)おい、お前――(おかみは奥で居眠りでもしているか、返事なし。タンギイ、売台の方へ寄って行き、落ちているズボンと上着を拾って、台の上に置く)さあさ、着なすったら……
ヴィン ……(唖になったよう。顔も急に陰鬱になり、眼の色も暗く鈍くなっている)
タン (しかたなく、垂れた足にズボンをはかせる)どうしました? ……なに、ゴーガンさんは善い人でさ。……あんまり、あなたが、昂奮して言いなさるもんだから。フフ、そんな、あなた、先は永いんだから……
ヴィン ……(人がちがったようにノロノロした動作で売台からおりて、ズボンのボタンをかけ、上着に手を通す)……(非常に沈んだ声で)どうして、こうなんだろう僕は? ……ゴーガンは偉い人間だ、たしかに。……ホントだ、僕は昂奮しすぎる。僕が、悪い。……(言いながらユックリ歩いて「タンギイ像」の前に来て、無意識にそれを見ている)ふん。……先は永い……先は永い?(ヒョイとタンギイを見る)……いや、そうじゃない。僕は急がなきゃならない。……(再び「タンギイ像」に眼をやる。片手を前に出して、画面をいろいろにさえぎって見ながら)……トーン? アルモニイか。イマージュ。……(ほとんど無意識に先程投げ出してあった絵具箱の方へ行き、それを抱えて絵の方へ行き、箱を開け、パレットと筆を出して、椅子を引き寄せて絵に向っている)
タン 坐るんですか? 今日は、よしにしといたら、どうですかね?
ヴィン ……(そう言っているタンギイを、既に画家の眼でみつめ、筆が知らず知らずパレットに行っている。タンギイは、それから縛られたようになって、ひとりでに、いつもモデルとして掛けることになっている壁の前の椅子に行って掛けている)
ヴィン シャッポは?
タン ああ、そうそう。(と、壁の下方にかけてある麦わら帽子をかぶる。「タンギイ像」のタンギイになる)
ヴィン ……(それを見、次にパレットの上で絵具をつけた筆をカンパスに持って行き、塗りかけるが、塗らないで、筆を持った手で、自分の額をつかむ)
タン どうしました?
ヴィン ……頭が痛い。
タン あんまり、この、昂奮なさるから。……いっとき休んでいったらどうですかな。
ヴィン いや、大したことはない。近頃ちょいちょい、こんなことがあるんだ。……痛むと言うよりも、何か鳴るんだ。キューンと鳴って、そこら中がキラキラと白く見える。
タン あんまり根をつめて描き過ぎるんじゃありませんかねえ。……すこし旅行でもなすったら? ……アルルかニースあたりに行ったらって、ロートレックさんも、こないだ言ってらしたじゃありませんか?
ヴィン ロートレック……あれは良い男だ。アルル……でも、そんなことをすると、また金がかかる。テオドールに苦労をかけることになる。……そうでなくても、テオは楽ではない。そりゃ、僕の描いた絵はみんなテオの物になると言う約束で金を出してくれていて、嫌な顔などテオはしない。しないけど時々僕は、すまなくなることがある。
タン テオさんて方は、まったく良い弟さんだ。兄さんのことをあんだけ気にかけている弟と言うのは見たことがありませんね。
ヴィン 僕にはもったいない弟だ。だのに、僕は一生あれの厄介になり、あれを苦しめなけりゃならない。だって、僕の絵はまだ一枚も売れない。
タン なに、そのうちに売れますよ。これだけ立派な絵を描いていらっしゃるんだ。そりゃ、みんな、すぐれた絵かきさんは、なかなか認められません。現にピッサロさんやマネエさんなどもう五十過ぎです。それが、やっと売れはじめたのはこの二、三年のこってす。世間と言うものはそんなもんでさ。目の前で天才が飢えて死んでも知らん顔をしているくせに、ズーッと後になるとヤイヤイもてはやす。世間と言うものは、そういう馬鹿でさ、私なんぞ、なんにも深いことはわかりゃしませんけど、絵が好きですからね、とにかく良い絵と悪い絵くらいはわかりますからね、まあとにかく、すぐれた絵かきさんで、世間の馬鹿が認めないために貧乏している皆さんのために、ホンの少しでも役に立てばと思って、こうやって絵具屋をやっていますが――
ヴィン 小父
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