りない。一枚のタブロウ全体でも、ひとタッチずつの中でも彼は生きている。
 生きるということは、意識と無意識とを一度に働かして物にぶちあたることだ。行動の直中にキチガイになるということだ。そのことの直中に燃え、燃えつきるということだ。
 画作十年の全作品を通じてそうであるが、特に完全に自己の独創に立って矢つぎ早に傑作を描いた晩年三、四年間の作品には、近代画家の大概にあるところの、自然を三段論法風に「解釈」した跡が、ほとんどない。無邪気に、無雑にただセッセと描いているだけ。自然や人間をながめたものを「それ自体」と信じ切って、それに筆を従わせているだけのようだ。絵を見る人の受け取り方まで計算に入れて、それに対応する「手」としての理論や構築や作為はないように見える。
「解釈」から絵を描けば、一方において唯美主義やデカダンスが生れ、一方においてキュービズム、アブストラクト、シュールその他が生れる。そのような絵になれた人たちが、ゴッホの絵に物たりなさを感ずるのも、いくらか当然ともいえよう。しかし、ゴッホの良さと強固さも実はその点に在る。
 他の文化文物におけると同様に、絵も絵だけとして発達し爛熟す
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