い態度になっている。これがまた、私には、しんから美しく貴い姿に見える。
 第三に、彼の中に生きていたキリスト教だ。ゴッホを、正当な意味でキリスト者と呼び得るかどうかに就ては議論があろう。また、現に、キリスト教の教師の家に生れ育って青年時代に宣教師になって後しばらくしてキリスト教を捨てているのだから、「ゴッホの持っていたキリスト教」と言うのは、当らぬとも言える。私の言うのは、キリスト教を彼が捨ててからさえも、彼の血肉の中に生き残りつづけた宗教性のことである。一般にキリスト教的伝統を持たない日本人がヨーロッパ人を理解しようとする時に最も大きな障害になるのは、この点である。それも、一つの理論ないしは観念としてならばある程度まで理解出来ないことはないが、理論や観念の域を脱した深奥の血肉の世界や日常の空気の中にまでにじみこんでいるキリスト教的実体となると、掴まえることがほとんど不可能なくらいに困難である。私がゴッホをとらえるのに一番困難を感じたのもこの点であった。しかも、たしかにゴッホの人間には終生を通じてキリスト教的血肉を除外しては理解出来ないものの在るのを私は感じる。実は彼の絵にも根幹の所に
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