たら、左の頬を出せ。
人見 はい、それは――
伴 それをだね、そんな事をだね、文字通り実行しなければキリスト教にはずれる。救われることができない――天国に行けないというので、この、文字通り実行する気になった人間が居るとする、――つまりだ、アメリカ人、イギリス人、その他の、つまり敵国人をだね、つまり、愛するんだから、――戦争にでかければ、それを殺さなきゃならんから、行くのはイヤだ。
人見 そ、そ、そんな、私は、そんな者が居ようとは、思いません。居る筈がありませんです。そんな――
伴 キリスト教の方からいえば、それは、りっぱな事じゃないのかね?
人見 いえ、そんな、それは、なんです……どうして、そんな事をおっしゃいますでしょうか――いえ、最初から、なんです、憲兵隊などへ呼び出しを私などが受ける事からして、私、ビックリしておりまして――なんの事やら、わかりませんので――いったい、なんのために、このようなごじんもんを受けるのか、どうも、わけがわからないのでございまして――その点を、なんです――私は工場の方の青年学校の講師としましても、いつもつつしんで、この、常に万全をつくしまして――クリスト教の事を話しますにも、主として生徒たちの修養という事を主眼にしまして――それも、しかし、大東亜戦争になりましてからは、ほとんど教室ではキリスト教に関する事は一言も話さないように――
伴 だが、自分のうち……つまり、教会の方では、信者になりたいという人間に洗礼――といったね、洗礼をしてやったりはしているんだろう?
人見 はい、それは――いえ、しかし、そんな人も近頃、ほとんど有りませんものですから。
伴 ふむ。……(それまでいじくっていた小形の黒い本の、はじめから折ってあった所を開いて)ここだ。(読む)見よ、ある人、みもとにきたりて、言う。「師よ、われ、とこしえの命を得るためには、いかなる善き事をなすべきか」イエス言いたもう……えゝと、うん。読んで見たまい。(本を人見に渡す)
人見 え? はい……(その聖書と伴の顔を見くらべてオドオドする)読むのでございますか?
伴 うむ。
人見 (つかえつかえ読む)「師よ、われ、とこしえの命を得るためには、いかなる善きことをなすべきか」イエス言いたもう「善きことにつきて、なんぞ我れに問うか。善き者はただ一人のみ。なんじ、もし命に入らんと思わば、いましめを守れ」その人言う「いずれのいましめを」イエス言いたまう「殺すなかれ。姦淫するなかれ。盗むなかれ」「いつわりのアカシを立つるなかれ。父と母とをうやまえ。また、おのれの如くなんじの隣人を愛すべし」その――ああ!(ギクリとして口の中で叫ぶ。手に持った聖書がひとりでにめくれて表紙の見返しが現われ、そこに書いてある文字を見たのである)片倉……
伴 知っているね? 君の字だろう?(ニヤニヤして本の見返しを覗きこみながら)われらのために十字架にかかりたまいしイエスのみもとにて、逢わん、か。洗礼をさずけし日に、人見勉。わが兄弟、片倉友吉君へ。
人見 ……すると、すると、なんでございますか。さきほどからの事は、片倉の、この、なにか、この――
伴 だからさ、私が聞いているのは――
人見 あれは実に、なんです、おとなしい、正直な……まるでこの、子供のように単純な男でして、それが、なにか――
伴 うん、正直ではあるようだな。……こらこら、なんだそりゃ、君!(人見の足元を指す)
人見 は?
伴 いかんよ、おい!(人見の足もとに水たまりができている)きたないなあ!
人見 はあ?……(その水たまりと、伴の顔を見くらべても、まだ自分のした事に気づかず)はあ?
伴 困るじゃないか、どうも――
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(そこへ半開きになっていた扉から、そこまで連れて来た下士官の軍服の腕で背を押されて、ヨレヨレの訓練服を着た片倉友吉が入って来る。ほとんど少年といってよいほどの単純で柔和な顔が青い。からだつきと動作にどこか調子のこわれたような所ができている)
[#ここで字下げ終わり]
伴 ……そこへ、かける。
友吉 ……(伴にていねいにおじぎをしてから、人見を見る。相手を認め得ないでポカンとしている)
人見 ……(石のようになって、友吉を見つめていたが)……片倉。
友吉 ……(不意に相手を認めて)……先生。……(うれしそうに微笑)
人見 ど、ど、どうしたんだ、友吉君?
友吉 ……(マジマジと人見を見ていたが)人見先生……助けてください。……(子供らしくいって、唇のすみがギュッと下にさがり、からだが一つフラッとしたと思うと、立木が倒れるように前の方へストンと倒れて、動かなくなる。……その彼の頭が、人見のこしらえた水たまりのすぐわきにある)
伴 なんだ?……
人見 ……(二人ともユカの上の友吉の姿を見守っている
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