いううちの事で――
中年 それだ! 喜十というマットウ仁でやすがね、甲府に縁付いた妹の家が貧乏で子供が多くてね、おまけにその妹が病身でなあ、これまでもズッとこっちから仕送りをして来やしたが、喜十の方だって、カツカツやっている位のこんで、近頃じゃ、とてもやってけねえと言うんで、仕方が無えから、甲府の家に一緒になっちまって、自分は工場へでも、どこへでもつとめて稼ぐ――そう言うわけだ。そんでまあ、小作田を旦那の方へ返すと言うだがね。旦那の方じゃ、ただ返されても困る。代りに誰か借りてくれないようなら、仕方無えから、銀行の手に移すと言う。銀行の手に移れば、後はどうなるだか……まさかおっぽり放しにもしめえが、なんせ、唯でせえ、めった人も来ねえようなこんな山又山の中のタンボだからな、当分手が届かねえのは知れたこっでね。せっかくウンウン言って田普請をしてから、二十年から人手に可愛がられて来た三段歩近くの立派な水田が、荒れることは定だ。第一、米や麦を一升でも二升でもよけいに作らなきゃならねえという今日が日に、そんな事になっちゃ事だからね。そんでまあ――
青年 誰かほかの人が借りて作るわけには行かないんですか?
中年 それが、へえ、駄目だ。こんな時勢で、出るだけの人間は一人残らず出て行った後だからね。板橋部落三十軒ばかり、どこの家でも浮いている人手なんぞ、それこそ半ぎれだって有りゃしねえ。精一杯のカチカチの所まで働いているんで、この上、小作などを引受ける家は無え。……そんでまあ、こうして来やした。(まわりくどい言い方でやっと此処まで言って、相手にそれが解ったかどうかにおかまい無く、自分だけは説明し尽し得たりとして、ホッとして、煙草に火をつける)ハハハ、なあシゲちゃん。
女 ……(微笑しつつ麦こき)
青年 ……だけど、そんな、誰にもどうにも出来ない事を、あのお婆さんに。
中年 谷の方さ行ったなあ。それだ、ハハ、田の水う引っかきまわしながら、考えるづら。何事によらず、相談事もちかけられると、先ず[#「先ず」は底本では「先づ」]仕事をしる。仕事しながら、黙あって考えてら、おかしなばさまだよ。
青年 ……(考えている。相手の何もかも任せきった調子に対し、おりきのために、軽い反感を感じながら)しかし、そいつは――
中年 それだけじゃねえ。手の足りねえ出征家族に加勢する仕事でも、炭を山から運び出すことでも、そのほか此処らの村で目ぼしい事は、ばさまが大概先頭だ。ほかの者あ、大概理屈を言ってから、その理屈がのみ込めてから、はじまる。ばさまは理屈言わねえ。やらなきゃならん事は、やるべし。そんだけだ。ほかの者が理屈言ってる間に、ばさま手を出しちゃってる。米麦増産だあとなったら、黙あって、あくる日から自分だけ、今迄、朝五時に畑さ出ていた[#「出ていた」は底本では「出てい 」]奴を四時に出はじめたのもばさまだ。
青年 四時にですか?
中年 此処だって……此処は村の草刈場でね、共有の入会地だ。おとどしだったか、一人でコリコリやってると思ってたら、見る内に麦い蒔いちゃってる。じょうぶ[#「じょうぶ」は底本では「じようぶ」]、手が早えと言っても!
青年 (麦畑を見まわして)これを一人でねえ……。
中年 ハハハ……(立ちあがって、黙って麦束を掴んで千歯に寄る。一言も言わなくても、代って麦こきをする気であることが解り、若い女は麦こきの手を止めて、わきに寄って、立って見る。その交代する様子が、馴れていると見えて、自然である)……(ブリブリとこきながら)へえ、近頃じゃ、村会のお旦那の言うことなど、どうかすると聞かねえ者も、ばさまの言う事は聞きやす。もっとも、ベラベラしゃべくるわけじゃ無えから気が附かねえ者あ、まるきり気が附かねえ。黙ってやってるのを、一人二人と見ならってやって行くだけだがね。……(青年はジット眼の前を見詰めていて返事をせぬ。中年男は三束四束とこき進んで、しばらく口をつぐんでいたが、何を思い出したか、急に笑い出す)ハッハハハハ、ハハハ……だども……ばさまにも一つだけ、どうにもならねえ事がある! 弘法さまにも筆のあやまりか。ハハハ……
青年 ……?(中年男を見る)
中年 こいつだけは、畑で作り出すわけにゃ、いかねえから、いい気味だ。なあシゲちゃん。お前、持って来たかえ?
女 へえ、いや……二三日前、小諸に行ったもんで捜したけど、近頃配給になってしまって、ロクなもん手に入らなくて……(帯の間から紙につつんだ小さい物を出す)ホンの二三本……
中年 縫針かあ、そいつは豪勢だ。俺あ、へえ、捜したりしている暇あ無えし、仕方無えで、組内かっさらって、木綿糸が、たったこいだけだ。(笑いながら、懐中から小さく巻いた糸のかたまりを出す)
青年 ……?
中年 (物問いたげにしている青年を見て
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