方へ眼をやってから、自分が鼻歌を歌っていたのを思い出したのか思い出さないのか、どっちとも附かず、ただ、急に女らしい、と言うよりは、殆んど少女の示すような、はにかみを現わした顔。その顔を、しかし、片手で邪慳にゴシゴシとこすりまわして)……へえ、おら、歌など唄えねえ。
青年 ですから、今唄っていた――
百姓 ハハ、お前さまこそ、歌あ唄って聞かしておくんなせえ。東京の衆は、うめえづら。……(チュン、チュンと思い切りよく手ばなをかんで、再び麦こき)
青年 ……(クスクス笑いながら)……じゃ、僕が唄えば、小母さんも唄ってくれますか?
百姓 う? へえ。……(それには返事をしないで)学生さんは、ノンキでようがすの。
青年 小母さんが聞かしてくれれば、私も唄いますよ。
百姓 フフ……お前さま、なんの学校でやす? いずれ大学校づら?
青年 いや、学生ではありません。ズーッと……船に乗っとる者で――
百姓 船かえ?……船になあ……するちうと、海の上、走っているだね?……太平洋なんと言う――?
青年 はあ、……先ず――
百姓 そんだら、ガ……ガタル……ガタル……ガダ……あんでも、ガダ……へえ、舌あ噛みそうだ。
青年 (微笑)……ガダルカナルですか?
百姓 そうそう、そったらカナルだ。行ったことがありやすかね、そこへ、お前さまあ?
青年 いや、まだ行きませんが……どうしてです?
百姓 ううん、いや……(何か考えているらしいが、麦こきの手は休めない)……(気を変えて)船の人が、だども、山へ登ると言うなあ――? 今どきあ、忙しからずに?
青年 三四日、休暇が出たもんですからね……急に此方へ来たくなって――だけど、馴れないもんだから、山路の遠いのにゃ、驚ろきました。直ぐ其処に見えてる山を越えるのに、とんでもない所をグルグル廻る……。
百姓 山登りは、はじめてかね?
青年 いえ、もともと山は好きなんで、以前少しは登ったんですが、八ヶ嶽は、はじめてです。……富士見に降りて、あの辺を歩いて見ようと思って……少し歩いていたら、急に此方へ越えて見たくなりましてね……。
百姓 ふむ、富士見からね? そいつは御苦労さまだ。
青年 なに、おっ母さんの室の窓から、年がら年中、見えるものと言えば此の山です。あれを越して行けば、川上、野辺山……それを抜けてズンズン行けば秩父へ出られる……何度も、そんな風に聞かされて
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