「冒した者」について
三好十郎

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)[#地から1字上げ](一九五二年八月)
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 私の作品はたいがいそうであるが、特にこの「冒した者」では「現代」そのものが直接的に主題になり主人になっている作品である。
 それはこの中に描かれた事件や人物が実際において私の身近に起きた事件であり実在の人物であると言う意味だけでは無い。もっと深い意味で――つまり主題の押し出し方や材料の処理のしかたそのものが「現代」なのである。現代では「私」の問題を真に追求するためには世界を除外することが出来ないし「世界」の問題を考えるのに「私」を切離して答えを出してみても無意味である。個と全体、主と客体、自と他は既にそのように結び合わされてしまっている。それが現代と言うものの一番大きな性格である。「私」の問題が提出される時には、その問題そのものが「世界」の問題でなければならぬし又「世界」の問題が解決される時には、その解決そのものが「私」の問題にも同時的に答え得るものでなければ、解決とはいえない。――私はそう思っている
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