。そう思っている私の考えを、そのまま戯曲の形でまとめて見ようとした。それがこの作品だ。
 次に、私はこの作品の中からこれまでの戯曲のすべてに在った演劇的な約束や大前提を投げ捨ててしまった。これまでの戯曲ではその戯曲をよく読みその演劇をよく見ていれば、その中に書かれている事が完全に理解できるようになっている。そういう約束や大前提のもとに書かれている。ところが、この作品ではそれが捨てられているために、唯単にこの作品を読みこの演劇を見ても、必ずしも、普通いう意味での「理解」は得られまいと思う。又そのような「理解」を私は望んでいない。問題は、これを読み、この芝居を見てくれる人が「現代人」であるか否かにかかっている。現代人ならばわかってくれるだろう。それも「理解」というよりも「悟」ってくれるだろうと思う。つまり作品理解の大前提のカギを作品の外つまり読者と観客のまんなかに投げ込んでしまった作品である。それを私は意図して行った。その良し悪しを私は知らない。私としてはどうしてもそうせざるを得なかったから、そうしたまでである。そして此の点だけに就いて言えば、それが成功しているか不成功に終っているかは別と
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