士の宅で遇《あ》った大学生が夏目氏その人であることは承知していたが、その時は全くの子供として子規居士の蔭に小さく坐ったままで碌《ろく》に談話も交えなかった人のことであるから、私は初対面の心持で氏の寓居《ぐうきょ》を訪ねた。氏の寓居というのは一番町の裁判所の裏手になって居る、城山の麓《ふもと》の少し高みのところであった。その頃そこは或る古道具屋が住まっていて、その座敷を間借りして漱石氏はまだ妻帯もしない書生上りの下宿生活をして居ったのであった。そこはもと菅《かん》という家老の屋敷であって、その家老時代の建物は取除けられてしまって、小さい一棟の二階建の家が広い敷地の中にぽつんと立っているばかりであったが、その広い敷地の中には蓮の生えている池もあれば、城山の緑につづいている松の林もあった。裁判所の横手を一丁ばかりも這入《はい》って行くと、そこに木の門があってそれを這入ると不規則な何十級かの石段があって、その石段を登りつめたところに、その古道具屋の住まっている四間か五間の二階建の家があった。私はそこでどんな風に案内を乞うたか、それは記憶に残って居らん。多分古道具屋の上《かみ》さんが、
「夏目さ
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