うか、それは私には分らない。
 さて私は明治三十一年の十月に『ホトトギス』を東京で発行するようになり、今までの暢気《のんき》な書生生活を改めて真面目に仕事をせなければならぬことになって、その事務所を一時神田の錦町に置き、間もなくそれを猿楽町に転じた。この猿楽町には子規居士も来るし飄亭《ひょうてい》、碧梧桐、露月《ろげつ》、四方太《しほうだ》などの諸君も熾《さか》んに出入するし、その『ホトトギス』が漸く俳句界の一勢力になって来たので、私の仕事も相当に多忙になって来た。初め『ホトトギス』を出すようになってからぜひ漱石氏にも何か寄稿をしてもらいたいという考が私にもあれば子規居士にもあった。それでこの事は私からでなく子規居士から漱石氏に依頼してやったように記憶して居る。漱石氏はそれに対して明治三十二年四月発行の『ホトトギス』第二巻第七号に「英国の文人と新聞雑誌」という表題で一|文《もん》を送ってくれた。その一篇の主意は、英国で新聞の出来た初めの頃は大方政治的なものであったが、それがだんだん発達して来るに従って、あらゆる種類の文学が新聞雑誌の厄介になる時代になった。それにつれて文学者と新聞雑誌と
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