ちは宿に帰る事にした。二人の少女は眼を覚まして我らを広い黒光りのしている玄関に送り出して来た。其処《そこ》には我ら四人の外一人の人影もなかった。二人の少女は大きな下駄箱の中からただ二つ残っている下駄を取り出して私たちのために敷台の下に運んでくれた。我ら二人が表に出る時二人の少女は声を揃えて
「さいなら。」と言った。漱石氏は優しく振り返りながら、
「さよなら。」と言った。私は今朝漱石氏がまだ何も知らずに眠りこけている玉喜久の濃い二つの眉を指先で撫でながら、
「もう四、五年立つと別嬪《べっぴん》になるのだな。」と言っていた言葉を思い出した。私は京都に来て禅寺のような狩野氏の家に寝泊りしていて、見物するところも寺ばかりであった漱石氏を一夜こういう処に引っぱって来た事に満足を覚えた。昨日狩野氏の門前では何の色艶もないように思われた春雨が、今朝はまた漱石氏と私とを包んで細かく艶《あで》やかに降り注ぎつつあるように思われた。
 その日私たちは万屋で袂《たもと》を別って、漱石氏は下鴨の狩野氏の家に帰り、私は奈良の方に向った。
 漱石氏の「虞美人草」の腹案はその後狩野氏の家でいよいよ結構が整えられたら
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