前に立った私は春めき立った京都の宿の緊張した光景を直《す》ぐ目の前に見た。二、三人の客は女中たちに送られて門前に待っている俥に乗って何処《どこ》かに出掛けて行くらしい様子であった。私の俥に並んで梶棒を下ろした俥からは、別の客が下り立って、番頭や女将から馴れ馴れしげに迎えられていた。私はその混雑の中を鞄をさげた女中の後に跟《つ》いて二階の一室に通された。客が多いにかかわらず割合広い座敷が私のために用意されていたので私の心は延び延びとした。
私は座敷に落付くや否や其処《そこ》の硯《すずり》を取り寄せて一本の手紙を書いた。それは少し以前から此の地に来ているはずの漱石氏に宛《あ》てたものであった。下鴨の狩野亨吉《かのうこうきち》氏の家に逗留しているという事であったので、未だ滞在しているかもう行き違って帰京したか、若しまだ滞在して居るのならばこれから直ぐ遊びに行っても好《よ》い、また宿の方へ来てくれても好い、というような意味の事を書いて遣《や》った。早速漱石氏からは、まだ滞在して居る、とにかく直ぐ遊びに来ないか、という返事があった。そこで私は俥に乗って下鴨の方に出掛けた。下鴨あたりの光景は、私
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