か漱石氏は高浜という松山から二里ばかりある海岸の船着場まで私を送って来てくれて、そこで船の来るのを待つ間、
「君も書いて見給え。」などと私にも短冊を突きつけ、自分でもいろいろ短冊を書いたりなどしたように思う。それがこの春の分袂《ふんべい》の時であったかと思う。それから秋になってまた帰省した時に、私と漱石氏とは一緒に松山を出発したのであった。私は広島から東に向い、漱石氏はそこから西に向って熊本に行くのであったが、広島まで一緒に行こうというので同時に松山を出で高浜から乗船したのであった。――確かその頃もう高浜の港は出来て居ったように思うのであるが、あるいは三津ヶ浜から乗ったのであったかもしれぬ。三津ヶ浜というのは松山藩時代の唯一の乗船場で、私たちが初めて笈《きゅう》を負うて京都に遊学した頃はまだこの三津ヶ浜から乗船したものであった。そこは港が浅くってその上西風が吹く時分は波が高いのでその後高浜という漁村に新しく港を築いて、桟橋に直ぐ船を横づけにすることが出来るようにしたのである。確か明治二十九年頃には、もうその港が出来ておったように思う。高浜といったところでその地名と私の姓とは何の関係もある訳ではない。――さてその広島に渡る時に漱石氏はまだ宮島を見たことがないから、そこに立寄って見たいと思う、私にも一緒に行って見ぬか、とのことであったので私も同行して宮島に一泊することになったのであった。その時船中で二人がベッドに寐る時の光景《ありさま》をはっきりと記憶している。宮島までは四、五時間の航路であると思うが、二人はその間を一等の切符を買って乗ったものである。それは昼間であったか夜であったか忘れたが多分夜であったのであろう。一等客は漱石氏と私との二人きりであった。漱石氏は棚になっている上の寐台《ねだい》に寐《い》ね、私は下の方の寐台に寐《ね》た。私はその寐台に這入る前にどちらの寐台に寐る方がえらいのかしらんと考えているうちに、漱石氏は、
「僕は失敬だがこちらに寐ますよ。」と言って棚の方の寐台に上った。そうすると上の方にあるのだからその棚の方の寐台がえらいのかなと思いながら私は下の方の寐台に這い込んだ。上であろうが下であろうがこんな寐台のようなものの中で寐たのは初めてであったので、私はその雪白の布《きれ》が私の身体を包むのを見るにつけ大《おおい》に愉快だと思った。そこで下から声をかけて、
「愉快ですねえ。」と言った。漱石氏も上から、
「フフフフ愉快ですねえ。」と答えた。私はまた下から、
「洋行でもしているようですねえ。」と言った。漱石氏はまた上から、
「そうですねえ。」と答えた。二人はよほど得意であったのである。その短い間のことが頭に牢記されているだけで、その他のことは一向記憶に残って居らん。宮島には私はその前にも一、二度行ったことがあるために、かえってその漱石氏と一緒に行った時のことは一向特別に記憶に残って居らん。それからいよいよ宮島か広島かで氏と袂《たもと》を分ったはずであるがその時のことも記憶にない。
その時漱石氏は松山の中学校を去って新しく熊本の第五高等中学校の教師となって赴任したのであった。私はそれから東京の下宿に帰り、漱石氏は熊本の高等学校に教鞭をとって、互に暫《しばら》く無沙汰をして居ったものであろう。此の手紙のうちで漱石氏が褒《ほ》めてくれた書牘体の一文云々というのは、その頃雑誌『日本人』に連載して居った俳話の一章でその後民友社から出版した我ら仲間の最初の俳句集『新俳句』の序文にしたものがそれである。それから『世界の日本』云々とあるのはその頃|竹越三叉《たけこしさんさ》氏が『世界の日本』という雑誌を出して居って、その文芸欄に我ら仲間の俳句が出たり、子規居士が我ら仲間の三、四人を批評する文章を載せたりしていた。それを言ったものである。その我ら仲間の批評というのは今俳書堂から出版している『俳句界四年間』の中《うち》に収録してあるはずである。私の句が難渋云々とあるのはその頃私はいわゆる極端な新傾向であって、調子も五七五では満足せず、盛にべく[#「べく」に白丸傍点]という字などを使用したものであった。当時碧梧桐君の文章のうちにも、
「乱調は虚子これを創《はじ》め云々」などと言って居る。今から考えると可笑《おか》しいようである。漱石氏はその乱調を批難しているのである。それからこの手紙の末段を読むに到って、漱石氏がその頃案外俳句に熱心であったことに一驚を喫するのである。実はその頃の私たちは俳句に於ては漱石氏などは眼中になかったといっては失礼な申分ではあるが、それほど重きに置いていなかったので、先輩としては十分に尊敬は払いながらも、漱石氏から送った俳句には朱筆を執って○や△をつけて返したものであった。そこで漱石氏の乱調に対する批難もそれ
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