で漱石氏は驚いたような興味のあるような眼をして、
「君のも赤いのか。」と言ったことだけは、はっきりと覚えている。後年『坊っちゃん』の中に赤シャツという言葉の出て来た時にこの時のことを思い合わせた。
ある日漱石氏は一人で私の家《うち》の前まで来て、私の机を置いている二階の下に立って、
「高浜君。」と呼んだ。その頃私の家は玉川町の東端にあったので、小さい二階は表ての青田も東の山も見えるように往来に面して建っていた。私は障子をあけて下をのぞくとそこに西洋|手拭《てぬぐい》をさげている漱石氏が立っていて、また道後の温泉に行かんかと言った。そこで一緒に出かけてゆっくり温泉にひたって二人は手拭を提げて野道を松山に帰ったのであったが、その帰り道に二人は神仙体の俳句を作ろうなどと言って彼れ一句、これ一句、春風|駘蕩《たいとう》たる野道をとぼとぼと歩きながら句を拾うのであった。この神仙体の句はその後村上霽月君にも勧めて、出来上った三人の句を雑誌『めざまし草《ぐさ》』に出したことなどがあった。
三
漱石氏から私に来た手紙の、今|手許《てもと》に残っている一番古いのは明治二十九年十二月五日附で熊本から寄越したものである。まずその全文を掲げることにしよう。
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来熊《らいゆう》以来は頗《すこぶ》る枯淡の生涯を送り居り候。道後の温泉にて神仙体を草したること、宮島にて紅葉《もみじ》に宿したることなど、皆過去の記念として今も愉快なる印象を脳裡にとどめ居り候。今日『日本人』三十一号を読みて君が書牘体《しょとくたい》の一文を拝見致し甚だ感心いたし候。立論も面白く行文は秀《ひ》でて美しく見受申候。この道に従って御進みあらば君は明治の文章家なるべし。ますます御奮励のほど奉希望候。先日『世界の日本』に出でたる「音たてて春の潮の流れけり」と申す御句甚だ珍重に存じ候。子規子が物したる君の俳評一読これまた面白く存じ候。人事的時間的の句中甚だ新にして美なるもの有之《これあり》候様に被存《ぞんぜられ》候。然し大兄の御近什中《ごきんじゅうちゅう》には甚だ難渋にして詩調にあらざるやの疑を起し候ものも有之様存候。(心安き間柄失礼は御海恕|可被下《くださるべく》候)所謂《いわゆる》べく[#「べく」に白丸傍点]づくしなどは小生の尤も耳障に存候処に御座候。然し「われに酔ふべく頭痛あり」、また「豊年も卜《ぼく》すべく、新酒も醸《かも》すべく」などは至極結構と存じ候。凡て近来の俳句一般に上達、巧者に相成候様子に存じ候。『読売』などに時々出るのは不相変《あいかわらず》まずきよう覚え候。まずしといえば小生先頃自身の旧作を検査いたし、そのまずきことに一驚を喫し候。作りし当時は誰しも多少の己惚《うのぼ》れはまぬかる可《べか》らざることながら、小生の如きは全く俳道に未熟のいたすところ実に面目なき次第に候。過日子規より俳書十数巻寄贈し来り候。大抵は読みつくし申候。過日願上候『七部集』及『故人五百題』(活字本)は御面倒ながら御序《おついで》の節御送り願上候。子規子近来の模様如何。此方より手紙を出しても一向返事も寄越さず、多忙か病気か無性《ぶしょう》か、或は三者の合併かと存候。小生僻地に罷在《まかりあり》、楽しみとするところは東京俳友の消息に有之、何卒《なにとぞ》爾後《じご》は時々景気御報知|被下度《くだされたく》候。近什少々御目にかけ候。御暇の節|御正《ごせい》願上候。小生蔵書印を近刻いたし候。これまた御覧に入れ候。頓首。
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十二月五日[#地から3字上げ]漱石
虚子様
その奥には漾虚碧堂蔵書という隷書《れいしょ》の印が捺《お》してある。さてこの手紙を読むにつけていろいろ思い出すことがある。神仙体云々のことは既に前文に書いた通り、漱石氏と道後の温泉に入浴してその帰り道などに春光に蒸されながら二人で神仙体の俳句を作ったのであった。それから次ぎに宮島にて紅葉に宿したることなど云々とあるのはまた別の思出がある。私は春から秋までかけて松山におったのではなかったように思う。私のところに残って居る漱石氏のただ一枚の短冊にこういう句が書いてある。それは「送別」としてあってその下に、
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永き日や欠伸《あくび》うつして別れ行く 愚陀
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と書いてある。愚陀《ぐだ》というのはその頃漱石氏は別号を愚陀仏といっていたのであった。この俳句から推して考えると、私は春に一度東京へ帰ってそれからまた何かの用事で再び松山に帰ったものと思われる。この短冊から更に聯想するのであるが、その頃漱石氏は頻《しき》りに短冊に句を書くことを試みていた。こう考えているうちに、だんだん記憶がはっきりして来るように覚えるのであるが、確
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