で行きませんか。」と言って私は氏を私の宿に引っぱって帰った。
宿屋に這入《はい》った後漱石氏は不思議な様子を私に見せた。狩野氏の家を出てから山端の平八茶屋で午飯を食うて此の宿の門前に来るまでは如何《いか》にも柔順《すなお》な子供らしい態度の漱石氏であったが、一度宿屋の門をくぐって女中たちが我らを出迎えてからは、たちまち奇矯《ききょう》な漱石氏に変ってしまった。万屋は固《もと》より第一流の宿屋ではない。また三流四流に下る宿屋でもない。私たちは何の考慮を煩わす事もなしに、ただ自分の家の門をくぐるのと同じような気軽い心持で出入する程度の宿屋であったのだが、漱石氏の神経はこの宿の閾《しきい》をまたぐと同時に異常に昂奮した。まず女中が挨拶をするのに対して冷眼に一瞥《いちべつ》をくれたままで、黙って返事をしなかった。そうしてしばらくしてから、
「姉さんの眼は妙な恰好の眼だね。」と言って、如何《いか》にもその女を憎悪するような顔付をしていた。平凡なおとなしいその京都の女は、温色《おんしょく》を包んで伏目になって引き下がった。やがて湯に這入らぬかと言って今度は別の女中が顔を出した。これはお重《じゅう》という女中頭をしている気の勝った女であった。
「一緒に這入りませんか。」と私が勧めたら、氏は、
「這入りましょう。」と言って逆らわなかった。が、その時投げ出していた足をお重の鼻先に突き出して黙ってお重を瞰《ね》めつけていた。お重は顔を赤くして、口を堅く引き緊《し》めて、じっとそれを見ていたが漸く怒を圧《おさ》え得たらしい様子で、
「足袋をお脱《ぬ》がせ申すのどすか。」と言って両手を掛けてこはぜを外しかけた。その足袋の雲斎底には黒く脂が滲み出していて、紺には白く埃がかかっていた。片方の足袋を脱がし終ると更らに此方《こちら》の足を突き出した。それもお重は隠忍して脱がせた。私は何のために漱石氏がそんな事をするのかと、ただ可笑《おか》しく思いながら、その光景《ありさま》を眺めて居た。が、も少し宿が威張った宿であるとか、女中が素的な美人であるとかしたならば、この舞台も映えるかも知れないけれども、そんなに漱石氏が芝居をするほどの舞台でもあるまいというような少し厭な心持もせぬではなかった。私は氏を促し立てて湯殿に這入った。
湯殿は大きな鏡があったり、蝋石のテーブルがあったり、新しい白木の湯槽《ゆぶね》に栓をねじると美しい京都の水が迸《ほとばし》り出たり、四壁にはめたガラスを透して穏かな春の日影が流れ込んで来たりするので、漱石氏の心はよほど平らかになった模様であった。
「これは贅沢な風呂だ。」などと言いながら自分で栓をねじって迸り出る水を快さそうに眺めながら手拭を持った手で風呂の中を掻き廻しなどしていた。白い手拭が清澄な水の中で布晒《ぬのさら》しのように棚引いていた。二人は春の日が何時《いつ》暮れるとも知らぬような心持で、ゆっくりと此の湯槽の中に浸《つか》って、道後の温泉の回想談やその他取りとめもない雑談をして大分長い時間を此の湯殿で費した。
湯から出た後の漱石氏は前ほどに昂奮していなかった。お重に鋏《はさみ》を借りて縁に投げ出した足の爪を自ら剪《き》ったりした。お重と二人廊下に立って春雨に曇った東山を眺めながら、あれが清水の塔だ、あれが八坂の塔だなど、話し合っていたりした。晩飯をすませてから灯火《ともしび》の巷の花見小路を通って二人は都踊に這入った。
都踊の光景は何時来て見ても同じものであった。待合室に待って居る間に、客に連れられた一人の舞子が私に辞儀をした。
「君は舞子を知っているのですか。」と漱石氏は不思議そうに私に訊《き》いた。
「あれは『風流懺法』の中に書いた松勇《まつゆう》という舞子です」と私は答えた。松勇らの一群は流るる水のように灯の下を過ぎて何処《どこ》かに消えてしまった。今演ぜられつつある踊が一段落となって今の見物人が追い出されたために繰込むべく待合わしている此の待合室の客は刻々に人数《にんず》を増して来た。ガラス張りの戸棚の中《うち》には花魁《おいらん》の着る裲襠《しかけ》が電燈の光を浴びて陳列してあった。そのガラスの廻りにへばりついている人には若い京都風の男もあれば妻君を携帯している東京風の男もあった。それらの群集の中に手持不沙汰に突立っている一人の西洋人を見出したときに漱石氏は「あれはウッドでないか。」と口の中で呟くように言った。この待合室に這入った後の漱石氏はまた万屋の閾をまたいだ後の漱石氏と同じようにその顔面の筋肉は異常に緊きしまっているように思われたが、この時私はつかつかとその西洋人の方に進んで行く漱石氏の姿を認めた。
「アア、ユウ、ウッド?」という極めて鋭い漱石氏の発音が私の耳を擘《つんざ》くように聞こえた。それと同時に私
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