はあっ気に取られた顔をして無言のまま漱石氏を見下しているその西洋人の顔を見出した。私は漱石氏がそのウッドなる西洋人に対して何か深怨を抱いていて、今|此処《ここ》で出会ったを幸に、何事かを面責しようとしているのかと想像しつつこれを凝視していた。しばらく漱石氏の顔を見下していた西洋人は、やがてついと顔を外らして、向うの群集の中に這入ってしまった。
「どうしたのです。」と私は漱石氏を迎えて訊いた。
「勝手が判らなくってまごまごしているのは可哀想と思うたから……。」と言いかけて氏は堅く口を緘《と》じて鋭い目で前方を瞰《にら》んでいた。私は氏がその西洋人を旧知のウッドなる人を見違えたのだったろうと考えてその以上を追求して尋ねなかった。
 やがて時間が来て待合室を出た一同は、ぞろぞろと会場に流れ込んで目の前に何十人という美人が現われ出たのを眺め入るのであった。漱石氏も別に厭な心持もしなかったと見えて、かつて本郷座や新富座の芝居を見た時のような皮肉な批評も下さずに黙ってそれを見ていた。踊がすんで別室で茶を喫む時も、一人の太夫が衆人環視の中で、目まじろかずと言ったような態度で、玉虫色の濃い紅をつけた唇を灯に輝やかせながら、茶の手前をしているのを氏は面白そうに眺めていた。その手前がすむと忽《たちま》ち数十人のお酌が人形箱から繰り出したように現われて来て、列を作って待受けている我らの前に一ぷくずつの薄茶茶碗を運んで来るその光景をまた氏は面白そうに眺めていた。そうして京都言葉で喋々《ちょうちょう》と喋り立てる老若男女に伍して一服の抹茶をすするのであった。
 都踊を出て漱石氏はその儘下鴨の狩野氏の家に帰る心持もしなかったようであった。私は三条の私の宿に同道しようとも思うたのであったが、花見小路の灯の下のぬかるみの中に立って、漱石氏に、
「『風流懺法』の一力に行って見ましょうか。まだ一、二時間は遊ぶ時間があるだろう。」と言った。
「ええ行って見ましょう。」と漱石氏は答えた。
 都踊時分の一力は何時も客が満員であると聞いていた。とても座敷が明いていないだろうと思いながら、私は前月知り合いになった仲居の誰れ彼れに交渉して見たら、幸に一つの座敷が明いているとの事であったので、その座敷に上った。『風流懺法』に書いた名前の舞子は半《なかば》以上顔を見せた。けれどもそれは舞子たちのみであって、姉さんたちの芸子は新らしい顔ばかりであった。その中にお常《つね》さんという顔も美しくなければ三味線も達者に弾けない、服装《なり》も他に比べて大分見劣りのする芸子が一人混っていた。それが何かにつけて仲居からも他の朋輩からも軽蔑される様子のある事が痛ましく眺められた。私は此の芸子の名前がお常というのであった事を何故今でも記憶しているかと言うと、それは漱石氏の次の言葉を今も忘れずに牢記しているからである。
「あのお常さんという女は芸者を止めてよろしく淑女となるべしだ。」
 私はこの言葉を聞いた時に覚えず噴き出して笑った。漱石氏もまた笑った。
 燭台の蝋燭《ろうそく》の光は何時《いつ》もの如く大きく揺れていた。仲居の大きな赤前垂の色は席上に現われたり消えたりした。三味線の糸の切れる音や、舞扇の音を立てて開く音なども春の夜の過ぎ行く時を刻んで、時々鋭く響き渡った。そんな時間が経過している間《ま》にお常さんの姿も席上から消えて失《な》くなってしまい、多くの芸子舞子の姿も消えて失くなってしまった。漱石氏はその手に携えていた書家が持つようなスケッチ帳を拡げて舞子に何かを書かしていた。それは先刻お常さんが淋しい声で歌った唄の文句であるらしかった。舞子の頭に翳《かざ》した櫛《くし》の名前が花櫛という事や畳の上を曳きずっている長い帯をだらりという事や、そういう名称なども舞子の片仮名交りの文字でその帳の上に書きとめさせていた。
「それでいい、なかなか千賀菊《ちがぎく》さんは字が旨《うま》いね。」などと漱石氏は物優しい低い声で話していた。千賀菊というのは『風流懺法』で私が三千歳《みちとせ》と呼んだ舞子であった。
 多くの舞子が去った後に残っていたのは、此の十三歳の千賀菊と同じく十三歳の玉喜久《たまぎく》との二人であった。二人とも都踊に出るために頭はふだんの時よりももっと派手な大きな髷に結《ゆ》っていた。花櫛もいつものよりももっと大きく派手な櫛であった。蝋燭の焔の揺らぐ下に、その大きな髷を俯向《うつむ》けて、三味線箱の上に乗せたスケッチ帳の上に両肱を左右に突き出すようにして書いている千賀菊の姿は艶に見えた。
 私たちはその夜は此の十三歳の二人の少女と共に此の一力の一間に夜を更かしてそのまま眠って了《しま》った。
 暁の光が此の十三歳の二人の少女の白粉《おしろい》を塗った寝顔の上に覚束なく落ち始めた頃私た
前へ 次へ
全38ページ中37ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
高浜 虚子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング