前に立った私は春めき立った京都の宿の緊張した光景を直《す》ぐ目の前に見た。二、三人の客は女中たちに送られて門前に待っている俥に乗って何処《どこ》かに出掛けて行くらしい様子であった。私の俥に並んで梶棒を下ろした俥からは、別の客が下り立って、番頭や女将から馴れ馴れしげに迎えられていた。私はその混雑の中を鞄をさげた女中の後に跟《つ》いて二階の一室に通された。客が多いにかかわらず割合広い座敷が私のために用意されていたので私の心は延び延びとした。
 私は座敷に落付くや否や其処《そこ》の硯《すずり》を取り寄せて一本の手紙を書いた。それは少し以前から此の地に来ているはずの漱石氏に宛《あ》てたものであった。下鴨の狩野亨吉《かのうこうきち》氏の家に逗留しているという事であったので、未だ滞在しているかもう行き違って帰京したか、若しまだ滞在して居るのならばこれから直ぐ遊びに行っても好《よ》い、また宿の方へ来てくれても好い、というような意味の事を書いて遣《や》った。早速漱石氏からは、まだ滞在して居る、とにかく直ぐ遊びに来ないか、という返事があった。そこで私は俥に乗って下鴨の方に出掛けた。下鴨あたりの光景は、私が吉田の下宿に居た時分に比べると非常に変化していた。以前の京都では見られなかった東京風の家が建っていた。それには大学や高等学校の先生たちが大方|住《すま》っている模様であった。軒々に散見する名札の中には大分知った名前があった。その二十四番地に狩野という名札を見出して私は案内を乞うた。狩野氏の事に就いては漱石氏から時々話を聞いていた。現に私は漱石氏の最も信頼する友人として明治三十年頃紹介状をもらった事すらあった。もっとも私はその頃|差支《さしつかえ》があってその紹介状はそのままにして狩野氏に逢う機会を見出さなかった。その紹介状は現に私の手元に残っていて、そうして初めて狩野氏に逢ったのは実に漱石氏の瞑目《めいもく》するその当夜であった。閑話休題として、その狩野氏は妻君を持たないで独身生活をつづけているという事を私は予《かね》て漱石氏から聞いていたが、春雨の降って居る門内の白い土を踏んでその玄関に立った時私はあたかも寺の庫裡《くり》にも這入ったような清い冷たい感じを受けた。玄関には支那の書物らしいものがやや乱雑に積重ねてあって、古びた毛氈《もうせん》のような赤い布が何物かの上に置いてあった。その毛氈の赤い色が強く私の目を射た。それは確かに赤い色には相違なかったが、少しも脂粉の気を誘うようなものではなかった。表に降って居る春雨も、一度この玄関内の光景に接すると忽ちその艶を失ってしまうように思われた。私の案内の声に応じて現われたのは一人の破袴を穿《は》いた丈高い書生さんであった。来意を通ずると直ちに私を漱石氏の室に通した。
 漱石氏は一人つくねんと六畳の座敷の机の前に坐っていた。第三高等学校の校長である主人公も、折ふし此の家に逗留しつつある菅虎雄《すがとらお》氏も皆外出中であって、自分一人家に残っているのであると漱石氏は話した。この漱石氏の京都滞在は、朝日新聞入社の事に関聯してであって、氏の腹中にはその後『朝日新聞』紙上に連載した「虞美人草」の稿案が組み立てられつつあったのであった。
「何処《どこ》かへ遊びに行きましたか。」と私は尋ねた。
「狩野と菅と三人で叡山へ登った事と菅の案内で相国寺や妙心寺や天竜寺などを観に行った位のものです。」と氏は答えた。
「お寺ばかりですね。」
 そういって私が笑うと氏もフフフンと笑って、
「菅の案内だもの」と答えた。
 ともかく何処かで午飯を食おうという事になって、私は山端の平八茶屋に氏を誘い出した。春雨の平八茶屋は我らの外に一人の客もなくって静かさを通り越して寧ろ淋しかった。四月発行の『ホトトギス』の話になった時、氏は私の『風流懺法《ふうりゅうせんぽう》』を推賞して、こういう短篇を沢山書いたらよかろうと言った。私は一月前|斎藤知白《さいとうちはく》君と叡山に遊び、叡山を下りてから、一足さき京都に来ていた知白君と一緒に一力に舞子の舞を観て『風流懺法』を書いたのであったが、今度の旅行は奈良の法隆寺に遊ぶ積りで出掛けて来たのである。漱石氏に逢った上は今夕にも奈良の方へ出掛ける積りであったのであるが、漱石氏が折角《せっかく》京都に滞在していて寺ばかり歩いていると聞いた時、私は今夜せめて都踊だけにでも氏を引っぱって行こうと思い立った。
「京都へ来てお寺ばかり歩いていても仕方がないでしょう。今夜都踊でも観に行きましょうか。」と私は言った。
「行って観ましょう。」と漱石氏は無造作に答えた。その時の様子が、今日一日は私のする通りになるといったような、極めてすなおな、何事も打まかせたような態度であった。
「それではともかくもこれから私の宿ま
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