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明治四十一年十月二十三日(封書)
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啓 寺田に聞いて見ました処小説集に名前を出す事はひらに御免蒙りたいのだそうであります。序の事は本人は知らないらしかった。然し厭でもないのでしょう黙っていました。一遍集めたものを読み直した上の事に致したいと存じます。以上。
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十月二十三日[#地から3字上げ]金之助
虚子様
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明治四十一年十二月三十一日(封書)
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拝啓 『ホトトギス』昨二十五日と、今二十六日をつぶし拝見、諸君子の作皆面白く候。その中《うち》で臼川のが一番劣り候。あれは少々イカサマの分子加わり居候。他は皆|真物《ほんもの》に候。
大兄の作。先夜伺った時は少々失敬致しよく分らずじまいの処、活版になって拝見の上大いに恐縮、あれは大兄の作ったうちにて傑作かと存候。なお向後も『ホトトギス』同人の健在と健筆を祈りていささかここに敬意を表し候。他の雑誌御覧なりや。どの位の出来か彼らの得意の処を拝見致度候。以上。
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十二月二十六日[#地から3字上げ]金
虚子様
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子供の名を伸六とつけました。申《さる》の年に人間が生れたから伸で六番目だから六に候。この間の旦《あした》は取消故併せて御吹聴に及候。
『ホトトギス』は広く同人の小説を掲載すると同時に大いに同人間の論客を御養成如何にや。
楽堂《がくどう》の舞踏談など面白く候。
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明治四十三年十一月二十一日(麹町区内幸町胃腸病院ヨリ)(封書)
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拝啓 その後は御無沙汰に打過候。修善寺にては御見舞をうけ難有候。なお入院中の事とて御礼にもまかり出ず失礼致居候。
別封|宮寛《みやかん》と申す男より参り候。中に大兄に関する事も有之候故入御覧候。この人は昔の高等学校生にて不治の病気のため廃学致候ものなる事御覧の如くに候。かかる人の書いたものを『ホトトギス』へでも載せてやったら嬉しがるだろうと思いかたがた入御覧候。文中小生の事のみ多く自分よりいえば夫が憚《はばかり》に候。文字は別段の光彩も無之内容もそれほどには見え不申、ただ普通のものよりは幾分か新しき事あらんかと存候。
右用事まで申上候。当節は小説も雑誌もきらいにて、日本書はふるい漢文か詩集のようなもの、然らざれば外国の小六《こむ》ずかしきものを手に致し候。それがため文海の動静には不案内に候。その方却ってうれしく候。新聞も実は見たくなき気持致候。草々頓首。
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十一月二十一日[#地から3字上げ]金之助
虚子様
○
大正二年六月十日(封書)
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啓。「相模のちり」御採用被下候由にて難有存候。あれは未知の人なれど折角故ただ小生の寸志にてしか取計いたるまでに候。紹介様のもの御入用の由故わずかばかり認め申候。近頃一向御目にかからず、健康も時々御違和の由承り居候えども、疾に御全快の事とのみ存居候いしに、いまだに御粥《おかゆ》と玉子にて御凌ぎは定めて御難渋の事と御察し申上候。それではひとの病気処にては無之、御見舞状を受けて却って痛み入る次第に候。『ホトトギス』は漸次御発展の由これまた恭賀。小生も何か差上度所存だけはとうから有之候えども身体やら心やらその他色々の事情のためつい故人に疎遠に相成るようの傾《かたむき》、甚だ無申訳候。四十を越し候と人間も碌な事には出合わず、ただこうしたいと思うのみにて何事もそう出来し事無之、耄碌《もうろく》の境地も眼前に相見え情なく候。御能へは多分参られる事と存居候。万事はその節。匆々頓首。
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六月十日[#地から3字上げ]金之助
虚子先生座右
[#改ページ]
京都で会った漱石氏
私は別項「漱石氏と私」中に掲げた漱石氏の手紙を点検している間に明治四十年の春漱石氏と京都で出会った時の事を昨日の如く目前に髣髴《ほうふつ》した。これは「漱石氏と私」中に記載してもいい事であるけれども、手紙の分量の多いために、一々その聯想を書く事は煩《わずらわ》しいので、そこにはこれを省き、別に一章としてその当時の回想を書き止めて見ようと思い立ったのである。
それは春雨の降っている日であった。七条の停車場《すてーしょん》から乗った俥《くるま》は三条の万屋の前に梶棒を下ろした。幌《ほろ》の中で聞いている京都の春雨の音は静かであったが、それでも賑やかな通に出ると俥の轍《わだち》の音が騒々しく行き交《まじ》ってやわらかみのある京都言葉も、慌《あわただ》しげに強く響いて来るのであった。今俥の幌の中からぬけ出て茶屋の
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