って、何か文章を書くように勧めて「猫」の第一回が出来たのも、それを以て『ホトトギス』の紙上を飾ろうとか、雑誌の売れ行きを増そうとか、そういうような考は少しもなく、尊敬する漱石氏が蘊蓄《うんちく》を傾けて文章を作ってみたらよかろうという位な軽い考であったのであるが、一度び「猫」が紙上に発表されて、それが読書界の人気を得て雑誌の売行《うりゆ》きが増してみると、発行人としての私は勢い『ホトトギス』のために氏の寄稿を要望せねばならぬような破目になって来た。漱石氏もまたはじめの間はその要望を寧ろ幸いとして強いて創作の機会を見出すようにつとめつつあったらしかった。
そうこうしているうちに氏は一躍して文学界の大立物となってしまった。各種の雑誌は競うて君の作物を掲げ、その待遇も互に他におとらぬようにと競争するようになって来た。『ホトトギス』は従来原稿料というものを殆ど払ったことはなかったのであるが、「猫」には一頁一円の原稿料を払うことにした。そうしてこれはやがて他の作家にも及ぼしてすべての人の作物に同じような原稿料を仕払うことにした。しかしながら一頁一円の原稿料というものは、当時にあっても決して十分の待遇とはいえなかった。他の雑誌はもっと沢山の原稿料を支払って居るものであることが、後になって分った。今まで世間と殆んど没交渉であった『ホトトギス』は、原稿料の相場というようなものは皆目承知しなかった上に、四、五人の社員組織でやっていた窮屈な制度のもとにあっては、にわかに『ホトトギス』を世間体の雑誌に改革して競争場裡に打って出るというようなことは仲々難かしかった。漱石氏はそんなことには頓着なしに、『ホトトギス』は自分の生れ故郷としてこちらが要望するままに暇さえあれば筆を執ることをいつも快諾したのであったが、しかも他の雑誌社からの要求が烈しくなればなるほど自然『ホトトギス』のために筆を執る機会が少くなって来た。それと同時に氏はその門下生ともいうべき人々の作品を『ホトトギス』に紹介して、これを紙上に発表することを要求した。私は大概その要求に従った。中には止むを得ず載せたようなものもあったけれども、中にはまた沢山の傑作もあった。三重吉《みえきち》君をはじめとして今日文壇に名を成している漱石門下の多くの人が大概処女作を『ホトトギス』に発表するようになったのもそのためであった。
漱石氏はまた『
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