ちは宿に帰る事にした。二人の少女は眼を覚まして我らを広い黒光りのしている玄関に送り出して来た。其処《そこ》には我ら四人の外一人の人影もなかった。二人の少女は大きな下駄箱の中からただ二つ残っている下駄を取り出して私たちのために敷台の下に運んでくれた。我ら二人が表に出る時二人の少女は声を揃えて
「さいなら。」と言った。漱石氏は優しく振り返りながら、
「さよなら。」と言った。私は今朝漱石氏がまだ何も知らずに眠りこけている玉喜久の濃い二つの眉を指先で撫でながら、
「もう四、五年立つと別嬪《べっぴん》になるのだな。」と言っていた言葉を思い出した。私は京都に来て禅寺のような狩野氏の家に寝泊りしていて、見物するところも寺ばかりであった漱石氏を一夜こういう処に引っぱって来た事に満足を覚えた。昨日狩野氏の門前では何の色艶もないように思われた春雨が、今朝はまた漱石氏と私とを包んで細かく艶《あで》やかに降り注ぎつつあるように思われた。
その日私たちは万屋で袂《たもと》を別って、漱石氏は下鴨の狩野氏の家に帰り、私は奈良の方に向った。
漱石氏の「虞美人草」の腹案はその後狩野氏の家でいよいよ結構が整えられたらしく、その月の上旬に帰京し、私は法隆寺の前の宿に泊って短い「斑鳩物語」の材料を得た。
京都に於ける漱石氏の記憶というのもこれだけに過ぎぬ。もう少し長くなる積りで書いて見たが、書いて見るとこんな短なものになってしまった。
その後漱石氏はまた一度京都に遊んで、祇園の大友という茶屋で発病してその家に十数日横臥し、介抱のために妻君が西下して来たような事もあったとの事である。然しその頃の漱石氏の消息は私は委しくは知らない。ただ横臥した家が祇園の茶屋であったという処から推して考えて見ても、その時の漱石氏はもう寺ばかりを歩いて居たのではなかったろうと想像される。千賀菊は数年前請け出されて人の妾となり、既に二、三人の子持であるという事を寸紅堂の主人が何時か上京の序《ついで》に話した。玉喜久は今なお祇園の地に在って、姉さん株の芸子である事を一昨年京都に遊んだ時に聞いた。当年の二少女は一夜の漱石氏の面影を記憶に存しているかどうか。
底本:「回想 子規・漱石」岩波文庫、岩波書店
2002(平成14)年8月20日第1刷発行
2006(平成18)年9月5日第5刷発行
底本の親本:「漱石氏と
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