の芸子は新らしい顔ばかりであった。その中にお常《つね》さんという顔も美しくなければ三味線も達者に弾けない、服装《なり》も他に比べて大分見劣りのする芸子が一人混っていた。それが何かにつけて仲居からも他の朋輩からも軽蔑される様子のある事が痛ましく眺められた。私は此の芸子の名前がお常というのであった事を何故今でも記憶しているかと言うと、それは漱石氏の次の言葉を今も忘れずに牢記しているからである。
「あのお常さんという女は芸者を止めてよろしく淑女となるべしだ。」
 私はこの言葉を聞いた時に覚えず噴き出して笑った。漱石氏もまた笑った。
 燭台の蝋燭《ろうそく》の光は何時《いつ》もの如く大きく揺れていた。仲居の大きな赤前垂の色は席上に現われたり消えたりした。三味線の糸の切れる音や、舞扇の音を立てて開く音なども春の夜の過ぎ行く時を刻んで、時々鋭く響き渡った。そんな時間が経過している間《ま》にお常さんの姿も席上から消えて失《な》くなってしまい、多くの芸子舞子の姿も消えて失くなってしまった。漱石氏はその手に携えていた書家が持つようなスケッチ帳を拡げて舞子に何かを書かしていた。それは先刻お常さんが淋しい声で歌った唄の文句であるらしかった。舞子の頭に翳《かざ》した櫛《くし》の名前が花櫛という事や畳の上を曳きずっている長い帯をだらりという事や、そういう名称なども舞子の片仮名交りの文字でその帳の上に書きとめさせていた。
「それでいい、なかなか千賀菊《ちがぎく》さんは字が旨《うま》いね。」などと漱石氏は物優しい低い声で話していた。千賀菊というのは『風流懺法』で私が三千歳《みちとせ》と呼んだ舞子であった。
 多くの舞子が去った後に残っていたのは、此の十三歳の千賀菊と同じく十三歳の玉喜久《たまぎく》との二人であった。二人とも都踊に出るために頭はふだんの時よりももっと派手な大きな髷に結《ゆ》っていた。花櫛もいつものよりももっと大きく派手な櫛であった。蝋燭の焔の揺らぐ下に、その大きな髷を俯向《うつむ》けて、三味線箱の上に乗せたスケッチ帳の上に両肱を左右に突き出すようにして書いている千賀菊の姿は艶に見えた。
 私たちはその夜は此の十三歳の二人の少女と共に此の一力の一間に夜を更かしてそのまま眠って了《しま》った。
 暁の光が此の十三歳の二人の少女の白粉《おしろい》を塗った寝顔の上に覚束なく落ち始めた頃私た
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